2012年8月12日

どこへ行く同和研修 Aスルーされたカミングアウト

 
2007年、フジテレビのドラマプロデュサー・栗原美和子さん(以下栗原)が猿回し師・村崎太郎と結婚し、翌年太郎が被差別部落出身であることを「カミングアウト」する私小説「太郎が恋をする頃までには」(幻冬舎刊、写真)は、話題のベストセラーを連発した出版社から懸命に売り込んだにも関わらず、マスコミは彼女らが思うような反応をしなかったという。

「部落差別が今も根深いので無視された」というのが彼女らの言い分だが果たしてそうか。

当時、朝日新聞系の雑誌や、女性週刊誌が「歴史との結婚」などとセンセーショナルに扱い、「まったく取り上げなかった」という彼女の話は事実と異なる。

ただ栗原が一番期待していたであろう、テレビが冷ややかに対応したというのは間違っていないだろうと思う。テレビが「冷ややか」であるのが事実として、それが今日の日本社会の「部落差別の厳しさ」に直結するのか。

栗原の話は、ここで「部落差別の厳しさ」からマスコミのタブー(忌避意識)へとスライドしていく。

部落問題に限らず皇室、創価学会、警察、電力会社など、マスコミにタブーが存在するのは、栗原が声高に言わずとも周知のことである。

マスコミがかつて部落解放同盟に激しく糾弾された結果、「触らぬ神にたたりなし」的な過剰な部落問題への忌避意識が蔓延するようになった。さらに部落問題を取り上げる時には「部落民以外は差別者」、部落排外主義からのステレオタイプな記事や放送ばかりしか流さず、行政を屈服させ癒着した不公正で乱脈な同和行政には見て見ぬふり。

このような批判すべきタブーは今も存在するが、栗原はタブーの本質には踏み込まず、自分が書いた本を紹介してくれなかったということしか言わない。

マスコミの部落問題へのタブー意識は、業界の「事なかれ主義」と、部落解放同盟の確認糾弾闘争により自由な論議が閉ざされてきたことの負の遺産であることは間違いないが、「差別」とは次元が異なる。ましてテレビキー局という特殊な世界の体質を社会に一般化するのはナンセンスでしかない。

どうしてこれが、国民的な差別意識の根深さにされて、全国「300万人」の被差別部落出身者が今も差別に怯え苦しんでいるという話になるのか。飛躍が過ぎる。

講演で栗原はナーバスなテーマをドラマに取り上げる時、よく当事者の話を聞き、中途半端にやってはいけないという心構えを説いていた(栗原の在日韓国人2世への認識は共感できる)。しかし部落問題については観念的で時代錯誤なまったくの「中途半端」と言わざるを得ない。

「太郎が恋をする頃までには」の出版当時、栗原本人のウェディングドレス姿をを表紙に使い「被差別との結婚」などといった調子の過剰な宣伝に鼻白んだ人は少なくないのではないか。思うようにマスコミに取り上げられず、読者に受け入れられなかったことをもって、「部落差別が厳しい」などという論法は通用しない。(中田宏)
。(2012年8月12日 高知民報)

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