2011年7月24日

コラムアンテナ 村崎太郎のカミングアウト その後

講演する村崎太郎
高知県などが主催した第38回「部落差別をなくする運動」強調旬間啓発事業が7月13日、高知県民文化ホール・オレンジで開かれ500人が参加。2008年に「被差別部落」出身者であることを「カミングアウト」した猿回し師・村崎太郎が「結婚差別は根深い。無関心こそが差別」と涙を交え語った。(敬称略)

太郎は1961年生まれで50歳、山口県光市出身。太郎と猿回しは彼の父抜きに語れない。

太郎の父・義正(故人)は統一時代の部落解放同盟、同正常化連の活動家で、全国部落解放運動連絡会(全解連)山口県本部副委員長、日本共産党光市議を3期務めた。義正の弟で太郎の叔父・村崎勝利(故人)は全解連中央副委員長や全国人権連副議長を務めた大幹部だった。

太郎は途絶えていた地域の伝統芸能である周防猿回しを復活させたいという義正の要請に応え、猿回し芸人として生きることを決意。猿の次郎とのコンビで80年代から90年代にかけて活躍し、スターの座を射止めるが、華やかな日々はいつまでもは続かなかった。

太郎の講演内容はおよそ以下のようなものだった。
 
太郎が43歳の頃、事業の失敗、猿回しもいやになり、うつになって自殺を考えていた時、フジテレビのプロデューサー・栗原美和子から太郎次郎をドラマ化したいという話を持ち込まれた。ドラマを機に太郎は美和子と結婚(07年)。美和子が結婚を決意した最大の理由は「被差別部落出身だから」だった。「この時ほど部落出身を誇りに思ったことはない」。08年に美和子は『太郎が恋をする頃までには・・・』を出版する。小説ではあるが、太郎が被差別部落出身であることが読者に分かる作品で、芸能界初の「カミングアウト」となる。だが出版はしたものの、メディアに取り上げてもらえず、テレビの出番も増えない。部落問題がタブーであり、差別が今も厳しいから。この問題を、みんな興味を持たず忘れようとしているが、その無関心が差別なのだ。

太郎が語った部落差別の体験は、結局のところ芸能活動で思うような出番がないということに尽きるのだが、それを部落差別に流し込むのはいささか無理がある。売れっ子がカミングアウトしたとたんに干されたというのとは違うのである。

「メディアに取り上げられなかった」というが、太郎達がどういうことを期待していたのかは分からないが、『太郎が恋を』の出版前後には、「朝日新聞」や「女性セブン」、「女性自身」などが、「歴史との結婚」などとセンセーショナルに扱っており、「取り上げなかった」というのは事実に反する。仮に思ったように本が売れなかったのであれば、理由はもっと別のところにあるのではないか。

時代錯誤で作為的な宣伝に、鼻白んだ人もいただろうし、そもそも先祖の旧身分など気にとめない、関心がないというのは、ごく当然の反応で、そこに過剰にこだわる太郎たちに共感できない人も多かったのではなかろうか。

もちろん太郎が自らの責任で芸能人として改めて「カミングアウト」するのは自由だ。思惑がどうであれ、責めることはできないが、太郎は85年に講談社から出版された「青春漂流」(立花隆著)で出自を活字にしているし、父親
や叔父が著名な部落解放運動活動家でもあり、今になって被差別部落出身であることを声高に主張することには「今さら何で」という受け止めも多い。

講演で太郎が語ったエピソードにはリアリティに欠けるものも多かった。太郎は自らが生まれた部落の貧しさを強調してだろうが、「電気がきていなかった」と言ったが、60年代に電気がきていないというのは考えにくい。

また、太郎と同郷の同級生が出自を隠して隣町に嫁いだが、娘の結婚の際に出自を調べられ、部落出身であることが分かってしまい、半年前に自殺したとも述べた。

これが事実であれば一大差別事件として大騒ぎになるはずだが、部落解放同盟は問題にしていないし、山口県人権対策室も「そのような事実は承知していない」。解同や山口県が知らないだけなのだろうか。よく分からない。

太郎の話で唯一共感できたのは、中学生時代に太郎が受けた同和教育への反発だった。太郎は「自分たちは差別される人間だ」といわんばかりの教師の無神経な言葉に屈辱を感じたという。

しかし、当時と本質的に変わらない教育が30年以上たった今でも、学校現場で続いていることに太郎は触れない。「差別は根深い」と太郎が声高に叫ぶほど、太郎がかつて感じた思いを再生産し、問題の解決を遅らせていることに気が付いてほしかった。(N)(2011年7月24日 高知民報)