2006年7月2日

連載 記者クラブを考える
Gメディア自身が「知る権利」を阻害

「高知民報」は6月8日、県政記者クラブ(新聞社、放送局など14社)加盟の報道機関しか出席できない県知事の「定例記者会見」(ほぼ月1回開催されている)への出席を求めた要求書を同クラブに提出。この要求に対して6月16日、県政記者クラブから「『高知民報』の会見への出席は認められない」という内容の回答がありました。この間、議論の途中であることを考慮して、内容ついて公表は控えていましたが、県政記者クラブから正式回答があったことを受けて、順次内容を明らかにしていきます。

カルテル

知事会見をはじめとする公的機関が行う記者会見を、「記者クラブ」という特定メディアが排他的に独占している状況は、日本特有のもので世界にはほとんど例がなく(日本の制度が持ち込まれた韓国など一部の国だけ)、日本の報道界の閉鎖性、特異性の象徴になっています。

「報道の自由」は民主主義の根幹をなすものであり、それは国民の「知る権利」に応えるために保障されているものです。報道機関が「知る権利」に応えるために果たさなければならない役割は「民衆の番犬」=「ウォッチドッグ」となり、権力者の行動を監視し、問題点を指摘して警鐘をならすこと。権力の監視は特定のメディアだけでなく、様々なメディアが参加したほうが役割を果たせるのは自明の理。政権を倒す大スキャンダルは常に新聞やテレビではなく、記者クラブには入れてもらえない雑誌メディアが突破口を開いてきた歴史をみれば明らかです。

本来、記者クラブはプロフェッショナルなプレス集団として、力の弱いメディアの「報道の自由」も含めて守り広げ、国民の「知る権利」を拡大させる露払いの役割を果たすべきなのですが、現実の記者クラブは談合的なカルテルとして、排他的に情報を独占し他メディアを排除。国民の「知る権利」に応えるどころか、逆行させる役割を演じているのが実際です。このような役まわりをメディアが演じていることにメディア自身が問題意識を抱いていないところに、この国のジャーナリズムの深刻さが象徴的に現れています。

「見解?」
 
鎌倉市や長野県での「記者クラブ改革」の動きを受けて、大手新聞社や放送局の経営側がつくる日本新聞協会も、危機感を募らせ、記者クラブの閉鎖性を一定改めるべく動きを見せています。「記者クラブに関する日本新聞協会編集委員会の見解」では「記者会見参加者をクラブの構成員に一律に限定するのは適当ではありません。より開かれた会見を、それぞれの記者クラブの実情に合わせて追求していくべきです」とのべ、開かれた記者クラブへと脱皮を呼びかけています。

しかし、せっかくの新聞協会の「見解」ですが、現場の記者にはまったく届いていないのが現実。6月に県政記者クラブの幹事社を務めた全国紙記者も、議論の過程で「そんな見解など知らない」と平然と言い放ちました。