2007年12月9日

最終回「橋本県政の16年 県民本位の改革の行方」
O画期的な県民参加の県政改革
最後の定例会見にのぞむ橋本知事
11月27日、橋本大二郎知事が、最後の定例記者会見に臨みました。

16年間の知事生活を終えるにあたり橋本知事は、「感傷的な思いは不思議とない。まだまだ自分の人生を高知県のために力を尽くしたいという思いがある。仕事を終える一区切りではあるが、終わってしまったという気持ちはない。県民のみなさんに16年間支えていただき、心から感謝したい」と謝辞を述べ、自らのこれまでの体験をふまえて県政の透明化を推進するため、「働きかけ」の公表の重要性について強調しました。

橋本知事の16年を振り返ると、県政の公平性をいかに徹底するか、特定人物、特定企業・団体の不公正な影響力をいかに排除するのかが、極めて重要なテーマでした。

中内県政時代から県庁内で幹部職員に訓示をするなど高知県政に異常に食い込んでいた弘瀬勝・土佐闘犬センター代表の影響力を排除するために、橋本知事は文字通り体を張って取り組みました。

部落解放同盟の影響下にあった「モード・アバンセ」への闇融資、「よこはま水産」への異常な肩入れに至った主体性を欠く偏向した同和行政の姿勢を抜本的に改め、2001年には同和行政を他県に先駆けて完全終結。同和団体との交渉を県民にオープンにしました。

国分川右岸の河川敷における県の方針を、自らの企業に都合よく返させようと迫った建設会社社長の不当な要求もはねつけました(この不当要求は03年から04年にかけての「選挙資金疑惑」の発端となった)。

橋本知事の16年間は、常に県政を歪めようとする勢力とのたたかいであり、県政を歪めようとする動きの周辺には常に県議の存在がありました。橋本知事が利権・しがらみを断つ先頭に立ったからこそ、自民党県議団を最大会派とする県議会と執行部の緊張関係は高まりました。県議会となれ合い、「働きかけ」にも適当に便宜をはかるような県政であれば、県議会との対立は生まれてはいません。「対立」は公正な県民本位の県政の証であったといえます。

尾ア正直新知事は、自民・民主・社民・公明の政党、県職労や部落解放同盟県連など、県政と深い利害関係でつながっている勢力に選挙で推されて当選しました。「これまで知事室周辺に県議がくることはほとんどなかったが、今後は自分たちの推した知事だからと毎日のようにくることも想定できる」(橋本知事の11月27日会見)。尾ア新県政が「対話」という名で特定勢力への配慮など、不公正なことをするならば、県民的な批判は避けられません。公正な立場で選挙公約に掲げた政策の実現こそ求められています。

「利から理へ」

橋本知事の初当選は93年12月。日本経済はバブル崩壊後の長期不況の時代に入り、一方で新自由主義的な傾向が年々強まり、高知県のような経済基盤が脆弱な条件不利地域は、その負の影響を強く受け、県民生活は非常に困難な状態におかれます。

その中で橋本知事は「県庁はサービス業」、「費用対効果」という県職員の意識改革を強調し、リゾート開発の中止、乳幼児医療費無料化、少人数学級推進、きめ細かい中山間地への農林業支援など、苦しい県財政の中で県民生活を支えるために懸命に取り組んできました。

何より橋本前県政の最大の功績は「住民参加型県政」に集約されます。 橋本前知事は意見を異にする相手であっても、胸襟を開き意見交換をし、議論の結果、誰の意見であっても理が通るものであれば取り入れ、逆に国が言うことでも理が通らなければ敢然とたたかうという、利権型から「理の県政」へ、「利から理へ」の転換がはかられました。

市町村合併問題に現れた橋本前知事の動揺の背景には、国の度し難い地方交付税削減攻撃の影響と、憲法の掲げる地方自治への不確信があり、それが知事選不出馬につながっていきましたが、それを差し引いても「利権しがらみを排除した公正な県政」、「県民と連帯して国の攻撃とたたかう県政」、県民参加型の「理の通る」への県政改革に、橋本知事の果たした功績は極めて大きく、全国的にも画期的な経験として高く評価されるべきでしょう。
 
橋本知事への取材記録より(2007年10月12日)
 
−−部落問題へのかかわりについて。

橋本 自分と部落解放運動との関わりを総括するというと大げさだが、振り返るとNHK記者で福岡にいた時。1972年に赴任して間もない頃、部落問題にぶつかって取材し、その頃は、ある意味完全に部落解放同盟寄りだった。

「窓口一本化訴訟」の記事を、解放同盟の「運動は一本の力を持って行かなければ分散化させられる」という主張をそのまま受け入れて、そういう対応で書いていた。水平社のスタートの頃には、権力に分散させられてはいけないということがあったと思うが、この時が同和対策特別措置法ができて2年あまりということを考えると、すでに同和予算の配分と訴訟とが絡んでいたんだなと改めて思う。真摯な思いで運動に取り組んだ人もいれば、そうではなく、何派とは言わないが、そういう方向に流れ始めた人がいたことを充分見極められなかった。

東京のNHK社会部時代「マスコミ懇話会」で解放同盟との窓口をやった時には、当時「エセ同和事件」があり、その原稿を書くと、「それはおかしい」と解放同盟が言う。「エセ同和と批判することもおかしいじゃないかと」。 

その頃から理論的と言うと大げさだが、考え方に大衆と離れているものがありはしないかと感じ始めたが、その頃は全解連の力も非常に弱く、付き合いもないままで、どちらかと言えば解放同盟寄りでずっときた。今にして思えば、解放同盟の運動そのものに真摯に取り組んできた人は、何ら間違いはないと思うし、部落差別は極めて社会的現象としておかしいことなので根絶しなければいけないが、同和対策の事業法ができ、次々と繰り返され延長される中で、最初に予算ありき、「事業をすることが同和対策」というようになってきた。

これは本県の問題にもそのままつながるが、自分が知事になった時点で、もっと強い疑問を持って、切り込んでいかなければいけなかった。それが遅れたことが、後の様々な禍根につながったとつくづく思う。

共産党との間合い

−−知事の16年間、良きにしろ悪しきにしろ共産党との間合いが大きかった。

橋本 自分にとって悪しきということは何もなかった。共産党県議団に思うことは、他会派の議員が全部だめと言うわけではないが、反対であれ、賛成であれ、きちんと噛み合う議論ができる。そういう考えで答えられる質問をしてもらえる。

そういう議員が共産党をおいてほとんどいなかったし、今も数少ないという現実があって、自分の理屈っぽさもあるかもしれないが、議会の場は、理で議論する場であり、好き嫌いとか情や思いで、議論すべき場所ではない。きちんと議論していけるのが、共産党の議員だった。

農業問題では、田頭さんにいろいろ言われて、当時の農林水産部の書いた原稿をそのまま読んでいると怒られ、「この野郎」と思いながら議論をしていたが、議論する中で「言うことに理があるな」と思い、農林水産部の答え方を、最終的にできないにしても「こんな理屈ではおかしいのではないか」と答弁を変えさせてきた。自分自身の勉強にもなったし、話が噛み合うことが一番大きかった。

地労委委員任命の問題でも共産党に媚びを売るということではなく「統計的な人数から言っても、おかしいんじゃないの、連合だけ。県労連を排除する理屈が何もたたないではないか」と。

当時の労働省の通達の基準を素直に考えれば、こうなったということであって、それだけ世の中が逆に歪んでいたところがあったと思う。共産党系だからすべて排除していくのは、おかいしでしょうと。共産党に迎合することもおかしいし、共産党系だからと言う理由で、客観的な基準で当然席を置くべきところが排除されるのはおかしいという単にそれだけのこと。

−−しかし現実には「容共」というだけで「共産県政」と攻撃される。

橋本 「容共」というのがおかしい。たとえば非核港湾条例は、流れとして共産党が神戸方式の話をして、それを議論しながら、「それは高知県でやってもいいですね」と話をして決めた経緯がある。 話の最初が共産党の方からの提案や情報提供があったのかもしれないが、別に「容共」だからではなく、国が掲げているものを、地方として守っていくのは当然の事。ダブルスタンダードで、口では言うが実態はあいまい、今も「給油」は同じような状態にあるが、きちんとしていくべきではないか。

県政が「後戻り」する懸念
 
−−知事自身が「働きかけ」を受けたとのことだが。

橋本 最近、もう少し議会との関係をうまくできないかと言われ、「もう少しうまく」するとなると大きな会派とのつきあい、窓口を作るということになるので、そういうことでいくつか努力した。努力すると、次々といろんなことを持ち込まれて、過去は知事室に県議がくることはごく限られていたが、県議がきて具体的な要求をしてくる。

議会との関係を昔ながらに、車の両輪の融和だということにしたら、少なくとも知事室の中の会話は昔に戻るだろう。それが県政に反映されるかどうかは、知事自身の裁き方、秘書課など周りで固めるものの力量になっていく。これまでは秘書課が守らなくても、自然にむこうが敬遠していたのだが、これからはどうなのかということは感じた。

ただ、ある幹部と話した時「16年橋本知事と仕事をして部長、副部長、課長が育ってきているので、知事が変わっても組織として9割方は、その精神を残して動いていける」と言ってくれた。そうであればうれしいと思う。(聞き手 中田宏、2007年12月16日 高知民報)