2007年11月25日

連載「橋本県政の16年 県民本位の改革の行方」
N憲法と地方自治
知事室で執務する橋本知事
橋本大二郎県知事の「地方の限界」という認識の背景には、「現在の憲法には、地方自治について明確な規定がないので国とたたかえない」という思いが強くはたらいています。

「憲法上の規定がない」ということについて橋本知事は、これまで繰り返し言及しています。高知民報の取材にも「憲法上、何の位置づけもない中では賽の河原の石積、何年たっても変わらない」と、現行憲法上での地方自治の前進に極めて悲観的な見方をしました。

憲法には、国と地方の役割について本当に何の規定もないのでしょうか。日本国憲法には「第8章地方自治」という項目が立てられ、92条で「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて法律でこれを定める」とされています。

地方自治の本旨とは「住民自治と団体自治」のこと(「住民自治」とは、地方の運営はその地方の住民の意思によって行われるべきという概念。「団体自治」とは地方の運営は、国から独立した対等な自治権を持つ地方政府により行われるという概念)であり、今日の「地方切り捨て」は、憲法に明文上あれこれが不足しているから生じているわけではなく、現行憲法が定めている「地方自治の本旨」を政府が遵守していないことが最大の問題です。

また国が憲法上負っている国民生活の最低限の保障(ナショナルミニマム)への責任を、政府が放棄して地方交付税を一方的に削減していることで、財政力の弱い自治体の過疎地の住民が、国民として保障されるべき最低限度の生活すらおくれないところにまで追い込まれていることは、明確に憲法25条違反であり、許されることではありません。

憲法とは、国民の生活と権利を守り発展させ、政府にその実行を迫っていく際に、たたかいの足がかりとなるべきものですが、逆に言えば、いくら明文上書かれていたとしても、国民のたたかいがなければ、空文化することもあります。

地方が切り捨てられ、地方自治が空洞化している現状は、憲法と地方自治をめぐるたたかいの弱さの反映であることは事実ですが、全国の地域・自治体から運動を再構築して、国と自治体を変えていくならば、現行憲法での地方自治の前進は充分に展望があります。また文言だけ変えたとしても、政府がナショナルミニマムに責任を負う立場に立たなければ、責任を地方に転嫁するばかりで、地方自治の前進はありえません。

いわゆる「地方分権」を無条件に是とした前提で議論をすることには警戒する必要があります。現在の「分権論」は、アメリカや財界の求める規制緩和、国の責任放棄の流れの中で出てきているものであり、真の地方自治の拡充とはまったく異なるものだからです。(2007年11月25日高知民報)

橋本知事への取材記録(2007年10月12日)

−−地方自治の憲法上の制約について。

橋本 最初に地方自治の憲法上の制約を意識したのは、何年か前の全国知事会の席で、本県の財政課長をしていたこともある京都府の山田啓二知事が「憲法上、地方自治という言葉は、『地方自治の本旨にのっとり』と急に地方自治という言葉が出てくるだけで、そもそも『地方自治とは何か』、そこから引き出される国と地方との権限分担はどういうかたちのものかという取り決めが憲法にない。憲法上の位置づけがまったくないのに、国といくら喧嘩をしても、情報量も権限も圧倒的に国のほうが多いので、なかなか壁は破っていけない」という話をしたことがあり、「なるほどその通りだなあ。位置付けがないといくらやってもいかないだろうな」ということを感じ始めた。

その前に「三位一体の改革」で、「3兆円分の税源委譲をするので、その分の補助金のどれをやめるかは地方側で出してくれ」という投げかけがきた。その時はいろんな問題もあったが、自分たちは相当な高揚感を持ち、「これが分権につながっていくんだ」、「その大きな一歩なんだ」という思い入れを持って議論した。深夜まで議論し、単に言葉だけではなく、思いのこもった議論が知事会で初めてできた。ところが結果は、地方の自由度が高まるものではまったくなく、税源委譲もほとんどなく、逆に地方交付税が一方的に削られるだけに終わった。(削減額は)高知県分だけでも数百億円になり、市町村分を含めれば、その倍。大きく県民の暮らしにかかわるようになってきた。

橋本  第2期「分権改革」が進められようとしているが、知事会の中に6つのプロジェクトチームを作り、私は福祉分野を担当した。分野ごとに国の補助金、交付金、その他の法律的な規制により国の関与が地方にもたらしている問題点を洗い出す作業をしたが、これをやっている時にも相当の疑問を感じた。

保育所や特別養護老人ホームの設置や運営の基準が全国一律になっていたり、介護保険のケアマネージャー1人が1カ月にケアプランを立てられるのが8人までなど細かいことがズラズラ出てくる。細川護煕さんが熊本県知事だった頃、「バス停を動かすにも国の許可が必要で、ものすごい手間」ということが、地方分権の象徴的な出来事のように言われたが、あの時代と何が変わっているのだろうか。この議論を国民が見たら「地方分権とはこんな些末なことを取り上げて議論しているのか」と思われるのではないかと感じた。

国と議論をすると、省庁が出てきて「この設置基準は全国一律でやる必要がある」ということを言い、そのやりとりをしていくのだが、地方が国の基準の問題点を証明し、なくせばこんなによくなるという証明をしなければならない。「挙証責任」が地方に負わされている。憲法上、地方には何の位置づけもなく、国は大きな力と情報を持っている。その中でいくら地方が立証しようとしても、賽の河原の石積みで、何年たってもかわらない。立証責任を転換させていかなければならない。

国は外交・防衛など国が責任を持たなければいけないもの、医療保険など誰もが一律の基準でやっていかなければならないものを除けば、あとは地方の権限にする。どうしても国がやると主張する時には、国が挙証責任を負い議論していくことにならない限り、本当の意味の「地方分権」は進まない。「地方分権」が進まないまま道州制、単なる都道府県合併に進めば、本県のような地理的経済的な県はさらに厳しい状況に追いやられる。

知事の仕事には、現実の中での仕事と、国との力関係の中で理想を求める仕事がある。現実の仕事で能力のある人が自治を担って行くことは変わらないが、国との関係で理想を追い求めていくという部分でも、誰かがその壁を破っていくような憲法上の位置付けや、選挙で、政党のマニフェストにそういうものを掲げて大きな転換をはかっていくことを誰かがやっていかない限り、変わりようがない。いかに能力のある人が地方自治を担ったとしても、その壁は厚いのではないかと思ったのが、自分の感じた「壁」ということだ。

−−加憲ということか?

橋本 安倍前首相が今の「手続き法」を作ったが、そこでは安倍さん自身も9条のことを意識していたと思うし、賛成派・反対派も、それぞれ9条をイメージしていたと思う。9条や平和のことは大切だが、手続き法ができ、憲法について考えていくからには、9条だけではなく、天皇制、国と地方、環境問題など、もう一度これから100年、200年先の日本を考え、検討していくべきもの、書き込んでいくべきものがあるのではないか。

−−次の政治活動の旗印が新憲法制定になるのか。

橋本 そこまで力があるか、時間的なゆとりがあるかも分からない。今60歳なので、少なくてもあと10年は、今の頭の使い方ができると仮定した時、その間に今言ったような問題意識で勉強をして考えてみたい。日本の歴史を振り返っても、明治憲法を作る時に、岩倉具視の使節団が欧米に行き、伊藤博文など肩書きを持った人たちが何ヶ月・何年と勉強をしている。それくらいの意気込みで、これからの100年、200年の日本の進路を考えて行くべき時なのかなと思う。
 
−−国のミニマムの放棄には、13条や25条に依拠してたたかえないのか。憲法に書かれても空文化しているものもある。「地方の役割」を加えても、運動がなければだめではないのか。

橋本 「生存権」や「公共の福祉」など「最低限」というものが、ややあいまいな表現と、国と地方の権限というのは少し違う。国と地方の問題は、憲法上明確にできるのではないかと思う。ただ、いかなるものであれ、運動とあいまうことは必要。「朝日訴訟」のような運動もあるし、政党としてのマニフェストを掲げての運動ということもあるだろう。(聞き手 高知民報 中田宏)