2007年8月26日

新連載「橋本県政の16年 県民本位の改革の行方」
A県議会が議論のできる場に

1992年10月27日、国民大運動高知県実行委員会と話し合う橋本知事
市場原理万能主義的な色彩が色濃く見られた橋本県政でしたが、その一方でスタート直後から重要な変化が現れました。

橋本知事は「車座談義」と称するミニ集会を県下各地で開催し、県民の声を直に聞くことにこだわり、知事を支持していない団体にも胸襟を開いて話を聞く機会を積極的に設けました。橋本知事は対話の中で熱心にメモをとり質問を返してくるなど、これまでの知事像を大きく変えました。

県議会では質問と答弁に大きな変化がみられました。橋本県政以前の県議会では与党議員の質問はチェックされるはずの執行部が書くことが常態化。日本共産党の質問には木で鼻をくくったような答弁でまともに相手をしませんでした。

しかし橋本県政では、執行部が与党議員の質問を書くことをやめ、時に自民党の低レベルな質問に知事が逆質問で反論する場面が見られるなど、議会質問が本来あるべき緊張感のあるものへと変化しました。また共産党に対しても中内県政時代とはまったく異なり、きちんとした理詰めの答弁をするようになり、議会が論戦のできる場になりました。

この背景には、橋本知事には市場原理万能論=徹底したブルジョア民主主義的な思想が強くあるため、相手がたとえ共産党であろうともアンフェアなことは認めないという積極面が発揮された面があると考えられます。このような橋本知事の考え方は、封建的で非民主的な従来の自民党のやり方と次第に激しく対立するようになっていきます。

1993年2月議会を終えて梶原守光県議(当時)は「中内県政時代のように頭から共産党を排除することがなくなった。相手がどこであれきちんと議論するのは最低限の民主的ルールであり、県議会が議論できる場になった」と橋本県政での変化を評しています。

地労委委員任命

県政の政策面で大きな変化として現れたのは、県総合計画、国民休暇県構想、土佐浜リゾート構想、四万十空港など、中内県政時代に打ち上げた旧来型のゼネコン型開発構想が橋本知事のもとで次々と廃止・凍結されたことでした。

93年1月には地方労働委員会の労働者委員に県労連推薦の委員を任命しました。89年に総評が「連合」と全労連に分裂して以降、全労連=県労連の推薦する委員を任命したのは、当時革新県政だった沖縄県に続いて全国で2番目。保守系の県政では初のことでした。

この他、橋本県政1期目の重要な積極面は、@95年から無認可保育所への助成制度創設、A94年7月に須崎市で開催された全日本教職員組合の大会に反対する右翼の無法に対し、「こんなことに屈してはだめだ」と毅然とした姿勢示す、B嶺北地域での米軍機低空飛行を厳しく批判、C官官接待の廃止。

このような橋本知事の言動からは、@県民の世論と運動が理の通ったものであれば、過去の立場を転換しても要求に応えていく柔軟性を持っていること、A相手が米軍や政府、右翼団体であれ、県民の安全を脅かし民主主義をゆがめるものに対しては毅然とした対応をとるという優れた特長をもっていることが読みとれます。
95年高知知事選挙に立候補した佐竹峰雄候補

1期目の橋本県政には注目すべき重要な変化がありながらも、「山間部の高齢者を村の中心部にひとまとめにして集団生活をさせるべきだ」というような認識、高知大学への工学部設置でなく莫大な県費投入につながる公設民営方式による工科大学への執着、県立中央病院と高知市民病院の強引な統合、県職員労働組合への度を超した敵視、「県行革検討委員会」の会長に自民党政府の反動的イデオローグ・内田健三氏を据えるなど看過できない弱点も多く、95年11月26日に投票された知事選挙では、日本共産党高知県委員会は佐竹峰男県書記長を公認候補として擁立して選挙をたたかいました。(得票結果は橋本氏28万5614票、佐竹氏4万9498票)

この選挙で橋本知事は、どの政党からも推薦を受けず、市町村の首長や、県が多額の補助金を拠出している農協や漁協など業界団体の役員が名を連ねた「大きい橋を架ける会」という後援会組織を母体に選挙戦を展開しましたが、このような手法は知事の権力で支援の「踏み絵」を踏ませるもので翼賛的だという批判が高まりました。(2007年8月26日 高知民報)