2007年8月12日

新連載「橋本県政の16年 県民本位の改革の行方」
@316968票で初当選

橋本氏の初当選を報じる1991年12月2日付けの高知新聞
2007年8月1日。橋本大二郎県知事は、91年から4期16年間続けてきた知事職を「今期をもって退陣する」と表明しました。初当選からの今日まで、橋本県政の県政改革の歩みについて連載で振り返ります。

91年12月1日に投票された県知事選挙では、社会党が支持した元NHKキャスターの橋本大二郎氏(44)が316968票という大量得票で初当選しました(得票率66・81%)。他候補の得票は、自民党公認の前副知事・川崎昭典氏(63)が119268票(25・14%)、日本共産党が推薦した医師の森清一郎氏(69)は38202票(8・05%)でした。

特定の支持基盤を持たない「草の根」に担がれて選挙に臨んだ橋本氏が、県民の「県政変革」への願いの受け皿となり、雪崩現象のような大量得票で自民党公認候補を破ったことは、各方面に衝撃を与え、橋本氏の当選を伝えた「高知新聞」には、「記録的圧勝」、「驚異の大二郎旋風」、「変革へ燃えた草の根」という見出しが踊りました。

選挙戦で橋本氏は「脱官僚」、「無党派」をアピール。県民は長く続いた自民党県政からの転換を橋本氏に託しました。高知県でのこの動きは、後日の「青島・ノック現象」や改革派知事、「日本新党」らの新党ブームと政界再編の「先端」を行くものでした。

市場原理万能論

この選挙で橋本氏は無党派を標榜しながらも、自民党の「大物」であった兄橋本龍太郎・前蔵相との関係を前面に押し出し、自民党に推薦願いを出す一方で社会党の支持を受けるなど、政治的なスタンスにはブレがみられます。

橋本氏当選にあたっての浦田宣昭・日本共産党高知県委員長(当時)のコメントは「戦後46年県政を牛耳っていた自民党への怒りが屈折した形で示された。しかし中内県政の継承を掲げ、自民党最大派閥(竹下派)と直結している候補が県政を真に転換することはできない」という内容でした。

初期の橋本県政には今日の自民・公明政権による「改革」につながる市場原理万能的な色合いが濃くありました。とりわけ顕著だったのが農業問題で、コメ輸入自由化に明確に反対しないだけでなく、コメ自由化に反対する農協の運動に横槍を入れ、幹部を強くなじることまでしています。 また県内の圧倒的な農家を切り捨てる政府の「新農政」にも当時は賛意を示し、鳴り物入りで立ち上げた県のシンクタンクには三菱総研やNIRAなど財界直結の人材を迎えて県内の内発的な力に依拠しないなど、財界本流の意向を代弁する姿勢が強く現れていました。

93年3月28日付「高知民報」で梶原守光県議(当時)は、橋本県政について「保守政治の枠組みの中での積み木の積みかえで、『枠』そのものを批判する視点は持たない」と指摘しています。当時大問題になっていた国の補助金・地方交付税カットについて「国に中止を申し入れるべきではないか」との日本共産党の主張に対して当時の橋本知事は「県財政に悪影響を与えているとは思わない」と強弁。

また選挙で「脱官僚」をスローガンに掲げたものの93年には自治省官僚を県教育長に任命するなど矛盾した行動もあり、自民党政治の枠の中から抜け出す方向性はまだ示されていませんでした。また従来型の「根回し」を嫌い、ことあるごとに理詰めで「横並び」、「悪平等」を非難する橋本知事の手法には、とりわけ過疎地の町村長から批判が高まりました。

しかし、橋本県政はこのような重大な問題点を持ちながらも、スタート直後から旧態依然とした自民党県政から脱皮していく萌芽が垣間見え、注目すべき変化がありました。 (2007年8月12日 高知民報)