2017年2月12日

今なぜ戦争遺跡か 「44連隊弾薬庫は戦争の生証人」 出原恵三
出原恵三氏
高知市朝倉には、かつて旧歩兵44連隊の兵営をはじめ多くの軍施設が置かれていた。戦後、大部分は高知大学や住宅地に変貌を遂げたが、大学の西北の一隅に弾薬庫と講堂が120年の風雪に耐え建っている。

戦後、大蔵省印刷局用地となっていたことから偶然残ったのであるが、現在、建物と敷地は四国財務局に管理されており、近く競売にかけられ処分されようとしている。

この建物は2015年度に高知市が学術調査を行い報告書が刊行された。屋根などに改修はあるものの建築年代は「明治30年代」の44連隊開設時の建物とされ、歴史的重要性と保存活用の必要性が指摘されている。

旧44連隊は日清戦争後にロシアとの戦争に備え1896年12月、松山で創設され翌97年に朝倉に移駐。兵営4万坪に加え練兵場・演習場・病院・射撃場など12万坪以上の広大な面積を占めるものであった。

連隊設置には官民挙げての誘致運動があり敷地の多くを軍に献納した経緯もある。以後敗戦まで半世紀にわたり「郷土部隊」として存在し続けた。日露戦争、シベリア出兵、第一次・第二次上海事変から日中戦争、太平洋戦争へと出兵を繰り返し、多くの若者が大陸や南海の島に送り出され再びこの地を踏むことのなかった者も多い。県民の記憶に深く刻まれた日本近代史と戦争の「生き証人」である。

戦後72年が経過し戦争体験者が減る中、戦争を伝える手段として戦争遺跡が注目されている。戦争遺跡には文献史料からは得られない臨場感や説得力がある。原爆ドームの世界遺産登録を契機に文化財として保存される例が各地で増加。昨年現在で267件に上り、うち35件は重要文化財になっている。高知県でも2006年に南国市の前浜掩体7基が史跡となり1基は公園として整備された。

旧44連隊は長く高知県民と共にあった「郷土部隊」であり、弾薬庫と講堂は高知の戦争遺跡の本丸的存在である。これらの建物は断じて売却してはならず、文化財として保存整備し歴史の証言者として歴史と平和教育に活用すべきである。

来年は明治維新150年、高知でもイベントが準備されている。維新以来、日本は急速な近代化を図り極めて短期間に驚異的な発展を遂げたが、その歴史を振り返る時、手放しに肯定することはできない。

150年の前半は侵略と植民地支配の時代であり、日本はアジアの隣国を犠牲にして「一等国」へとのし上がった。富国強兵の帰結と言うべきアジア太平洋戦争では自国民310万人、アジア各地で2000万人以上の犠牲者を出し大日本帝国は崩壊した。この歴史に真摯に向き合わずして150年は語れない。弾薬庫と講堂は歴史を体現した「生き証人」である。

現在、歴史修正主義や偏狭なナショナリズムが台頭し加害や抵抗の事実が隠蔽され、戦前回帰を思わせる虚構の歴史がまたぞろ作られようとしている。このような時こそ虚構を許さない真実の歴史構築が求められている。弾薬庫と講堂の保存は、私たちの立ち位置を再確認し、どのような未来を選択するのか、土台を築くことなのである。(戦争遺跡保存全国ネットワーク共同代表)(2017年2月12日 高知民報)