2015年8月2日

大空襲の傷痕生々しく 高知市役所旧庁舎跡
 
 
 
上から屋敷境の溝、空襲で溶けたガラス、防火水槽
高知市役所本庁舎の建て替え工事にともない旧庁舎を取り壊した跡から出土した帯屋町遺跡・本町遺跡発掘の成果を7月23日、高知市教育委員会民権文化財課が公表。江戸時代の高級武士の暮らしぶりを伝える遺物とともに、空襲に備えた防火水槽や現地で被災した「高知病院」の医療機具など1945年7月4日の高知大空襲の傷痕を生々しく残す遺物が多数出土しました。

江戸時代
 今回、発掘調査をした場所は、土佐藩の高級武士であった山内(分家)、深尾、森家の敷地にあたり、北側の帯屋町、南側の本町をまたいでいます。

帯屋町と本町と分けていた屋敷境には、しっかっりした溝が良好な状態で残されており、「屋敷境が、どういう形で分けられていたかが分かったのは初めてのことだ」(浜田恵子指導主事)。

また江戸時代後期に、このエリアに水道水を供給していた木樋(もくひ)も発掘。この他にも規模の大きな池の跡、有田焼や尾戸焼、中国の陶磁器など高価な陶製品や、肉を食べたあとの獣の骨や貝殻などの生活ゴミも出ており、当時の高級武士の生活ぶりがうかがわれます。

高知大空襲の傷痕 今回の調査区域は1945年7月4日の高知大空襲で被災しており、全体的に赤っぽい焼土層に覆われ、窪地になっていた池の跡は、多数の瓦、レンガ、溶けたガラスで埋まっていました。

この池跡から、コンクリート製の円筒型(直径66、深さ64センチメートル)の水槽=防火水槽が2基出土しています。当時は空襲に備える目的で数多くこのような水槽が設置されていました。

また明治28年からこの場所で開院していた民間総合病院の高知病院(当時の病床数250床、内科・外科・産婦人科・耳鼻咽喉科・皮膚科、同病院にHPから、現在は高知市相生町に移転)が、空襲で焼失した時に出たと思われる病院で使用されていたガラス製品などもが数多く見つかっています。

高知空襲を体験した岡村正弘さんの話 防火用水と言っていたが、どの家の前にもあり、バケツと火はたき(竹の先に縄を付けて濡らして消火する道具)と一緒に置いてあったことをよく覚えています。大事な遺物だと思います。(2015年8月2日 高知民報)