2015年6月28日

「解釈変更には限度がある」 岡田健一郎・高知大准教授
 
岡田健一郎・高知大准教授
今回、私が話したいのは昨年7月に政府が行った集団的自衛権に関する憲法解釈変更について。私には、この解釈変更が日本の平和主義だけでなく憲法改正問題、立憲主義、憲法審査会にも深刻な影響を与えていると思われるからだ。

実際に日本国憲法をみると分かるが、その条文の多くは抽象的な言葉遣いになっている。それは憲法が「この国の形」を定めるものであることに由来する。すなわち国や社会の形を予め、すべて細かく決めておくことは難しい。従ってある程度の形の大枠を抽象的に書いている。

そして時代が変化しても憲法解釈を変えていくことによって、憲法改正の手続きを踏まなくても、社会の変化に対してある程度、柔軟に対応していくというものだ。従って一般論として憲法解釈の変更が、それ自体絶対に許されないというわけではない。

しかしながら、ここには大事なルールがある。それは、解釈変更には限界があるということだ。条文から大きく逸脱した解釈は許されない。解釈の限界を超えて憲法の内容を変えたい場合には、憲法96条に従って憲法改正をするのが現行憲法のルールだ。このことは憲法99条に定める憲法尊重擁護義務からも要請される。

憲法は人権や統治機構など、国家や社会の基本原理を定めるルールだが、この内容が政府の解釈変更によって頻繁に変わることになれば、人々は一体どのように行動すればよいのか分からなくなってしまう。

憲法96条は憲法改正のために国会の議決に加え、国民投票も要求している。従って日本における憲法を改定する最終的決定権は有権者にあると考えられる。

本来なら憲法改正手続きを踏むべき場面なのに、政府が解釈の変更によって切り抜けようとする解釈改憲は、政府が有権者から憲法改正権を奪うことに他ならない。

しかも、今回の解釈変更は、数ある憲法の条文の中でも平和主義という国家の基本原理にかかわるものだ。自衛権に関する従来の政府解釈は、自国が攻撃を受けた場合にのみ反撃が可能になるというものだった。しかし、新しい解釈は自国が攻撃されていなくても実力行使が可能であるという集団的自衛権行使を認めるものだ。これら新旧の解釈の間には、はっきりとした断絶がある。

私は、自衛隊や個別的自衛権を認める従来の政府解釈自体、憲法9条の解釈で許される一線を超えていると考えているが、今回の解釈変更は、それをさらに一層踏み越えたものだ。

政府与党は日本をめぐる安全保障環境の変化や、砂川事件の最高裁判決を持ち出して解釈変更の正当性を主張するが、いずれも説得力に欠けると言わざるをえない。なるほど、確かに安全保障環境は変化している。日本の平和のためには集団的自衛権を行使できたほうがよいのではないか考える方が少なからずいても無理はない。  しかし、そうだとすれば、解釈変更ではなく憲法改正によって対応するのが筋と言える。

このような解釈変更が許されるならば、もはやどんな条文を、いかなる内容に解釈変更することさえ可能になるのではないか。
 たとえば従来の政府解釈では徴兵制が苦役を禁ずる憲法18条に反するため許されないとしてきた。しかし、集団的自衛権に解釈変更が許されるならば、「日本の安全保障環境の変化などを踏まえると、必要最小限度の徴兵制は憲法に違反しない」などと解釈変更し、徴兵制を導入することも可能ではないか。

まさかそんなことはありえないと思われるかもしれないが、しかし政府は国家の基本原理の解釈を憲法改正手続きをとることなく変えた。徴兵制に関する解釈変更がどうして不可能だと断言できるのか。

最近では憲法改正の候補として、環境権や国家緊急権などが議論されているが、それらの改正を行っても、結局、その時々の政府の望むように条文が解釈されてしまえば、そもそも憲法改正など無意味、有害だ。

国家緊急権とは、戦争や災害などの緊急時に、憲法の人権条項などを一時停止し、政府を中心とする国家権力の活動範囲を通常より拡大する仕組み。そうしないと、いざという時、政府が必要に駆られて憲法の枠組みを越えてしまいかねないというのが理由だ。確かに、これはこれで一理あるが、大事な前提条件がある。それは平時であっても、緊急事態でも、政府ができるだけ憲法を守ろうと努力すること。この前提条件が成り立っていない場合、国家緊急権によって与えられた権限を、政府はさらに踏み越え、国家緊急権に関する規定がない場合より結果として、市民の人権が侵害されてしまうというのは考えすぎか。

憲法改正を考える際には、政府が憲法を守るということを、私たちがどこまで信頼できるのかがポイントになる。「今ある憲法は守らないが、改正後の憲法は守ります」というのは、いささか都合のよい話だ。

昨年の解釈変更を踏まえると、残念ながら現在の政府に、そのような信頼を置くことは、いささか難しい。そうだとすれば、そもそも現在の日本は、憲法改正を議論する環境にない、といわざるを得ない。これは憲法審査会にとっても、深刻な問題ではないか。少なくとも、政府による昨年の解釈変更は撤回されるべきだ。

「憲法学者とは何と面倒臭いことを言うのだろう」と思われるかもしれないが、この「面倒臭さ」、「融通の利かなさ」は、日本国憲法が拠って立つ、近代立憲主義の性格に由来する。人々の基本的人権を守るため、国家権力を法で縛る、という考え方だ。(略)だからこそ、権力を縛る法を、権力が自ら緩めては困る。憲法学が憲法解釈の限界にこだわる理由は、ここにある。(略)(2015年6月28日 高知民報)