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遺影の前に立つキム・キュフン
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キム・キヒョンは物静かな男性で50歳。日本の全農のような組織である「NHケミカル」という会社で肥料販売しているとのことだった。
事故で亡くなった息子の名はキム・チュフン。ダンウォン高校2年8組8番、班長を任されていたという。
キム・キヒョンの日本語も、少し分かる程度で、こちらの片言のハングルと日本語を交錯させながら、電子辞書とスマートフォンを駆使して安国駅前舗道で警官隊に包囲されながら座り込んで取材に応じてくれた。
腹が空いたろうと、差し入れのキンパ(韓国のりまき)までご馳走になり、一緒にかぶりついた。
彼の言葉で一番印象に残ったのは「パク大統領は、私たち遺族に、いつでも会いに来て下さいと言ったはずなのに、会おうとしない。遺族の行動を警察が妨害するのはは恥ずかしいことだ」という静かなひと言だった。
キム・キヒョンには光化門広場の祭壇の遺影前で写真を撮らせてもらった。取材の時は、笑顔も見せしっかりした印象だったのだが、遺影を前にした彼の目には、うってかわって、深い悲しみが浮かんでいた。
キム・キヒュンとは帰国後も連絡を取っており、書いた記事やインターネットに公開した動画を見せると、「関心を持ってくれて有り難い」という返事をもらったが、そのメールには「今日の朝の光は美しかったが、私の心は美しい天気も嫌いだ。最愛の息子と一緒にすることができないことがあまりに胸が痛い」という文言が添えられていた。(写真と文=中田宏)(2015年6月21日 高知民報) |