2015年5月17日

連載「コリア通信 セウォル号の遺族たち」@ 「一変していた光化門広場」
 
 
犠牲になった生徒達が1年生の時に撮った集合写真(上)、セウォル追悼で染まる光化門広場(下、2015年4月30日)
2014年4月16日、韓国珍島沖の鉛色の海面に、青い船腹を見せて沈んでいく「セウォル号」に閉じ込められた乗客の多くが修学旅行中の高校生と知った時、頭をよぎったのは1950年5月11日、高松沖で沈んだ宇高連絡船「紫雲丸」だった。以来「セウォル号」事故のことが頭から離れない。

今年4月末から5月にかけて韓国ソウル市内で、事故で犠牲になった高校生の両親達が取材に応じてくれた。彼らは今、パク・クネ政権と激しく対立し、警官隊との衝突までが起きていることが日本でも報じられるが、遺族たちは今、何を思うのだろうか。本連載1部はセウォル号事故をめぐるたたかいの現場からレポートする。 
ソウル随一の観光地・景福宮(キョンボックン)の近く、光化門広場の李舜臣(イスンシン)像前は2年前と様変わりしていた。

「セウォル号」沈没で犠牲になった304人の遺影、市民や観光客、誰もが焼香・献花をすることができる祭壇が置かれ、周囲には遺族たちを支援するグループのテントが林立している。

事故の真相解明、その妨げになる大統領令撤回を求める署名が呼びかけられ、周辺では黄色いリボンを形取ったグッズの配布やコンサート、追悼行事、政権批判のデモンストレーションなどが切れることなく、波状的に取り組まれていた。

とりわけ目を引いたのが、250人の生徒たちが犠牲になった壇園高校2年生が、1年生の時に宿泊行事で撮った写真だった。

よほど楽しかったのだろう。明るい表情で思い思いのポーズをとる「坊ちゃん刈り」と「おかっぱ」頭の生徒はあまりにあどけない。ここに写る生徒の大半は亡くなっている。(写真と文=中田宏) (2015年5月17日 高知民報)