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高知市浦戸の受法寺で開かれた浦戸城シンポ(4月11日) |
長宗我部元親が1658年に完成させた浦戸城址(高知市浦戸)に県が龍馬記念館新館建設を計画していることに「長宗我部の聖地をこれ以上壊すな」という声が地域住民、研究者、全国の長宗我部ファンからあがっている問題で4月11日、城郭研究者の中井均・滋賀県立大学教授が同市浦戸で講演。同城が「朝鮮出兵」の拠点として築城された性格、土佐だけでなく日本の戦国史、東アジアの歴史も考察させる重要な城跡であり史跡保存を求めることの大切さを強調しました。主催は浦戸城保存会(川島義保会長)。
受法寺で開かれたシンポジウムで中井教授は「浦戸城址には石垣や堀切など本物が残されている。龍馬記念館という文化施設を歴史的遺産をつぶして建てていいのか。最低、発掘調査はしなければならない。龍馬ばかりでなく、土佐人のよりどころでもある浦戸城と共存させるビジョンを持つべきだ」。
さらに中井教授は、同城址に国民宿舎や現龍馬記念館が建ってしまっているからと史跡化をあきらめるべきではないと強調し、全国の事例を示しながら地域の運動次第では実現する可能性にも言及しました。
会場からの質疑応答では「100年、200年後に高知県は何をやっていたのか、その程度かと言われることが恥ずかしい」などという声が上がりました。
日本考古学学会埋蔵文化財保護対策委員の吉田広・愛媛大准教授の話 行政も地元も浦戸城の価値を十分知らないまま、龍馬記念館が新しく建つのはいけない。いったん計画を止め調べるべきだという要望を学会として出しているが、県はそのまま進める態度。今回仮に建てられても50年後にはまた老朽化する。その時に浦戸城を活かしたまちづくりができるようなビジョンを考えていきたい。
中井教授の講演要旨
@元親が岡豊→大高坂(現高知城)→浦戸へと移転して築城したのは、これまで言われてきた鏡川の治水の失敗が理由ではなく、秀吉の意向に添い朝鮮出兵に備える水軍の軍事戦略拠点として浦戸城が必要とされたからではないか。
A浦戸城は、「天守のない土の城」から「天守閣を持つ石垣の城(織田・豊臣型)」への転換期に建築され、石の割り方に、この時代特有の加工法が見られる。
B関ヶ原の合戦後に長宗我部が滅んだ後に土佐に入った山内氏は、浦戸城を廃城にせず1615年まで維持管理していたのではないかと思われるが廃城の経過ははっきりしない。そのために浦戸城は、もっと調べなくてはならない。(2015年4月19日 高知民報) |