2014年7月20日

コラムアンテナ「迷信を学ぶ愚」
 
講演する井沢氏
高知市と同市教委が主催した2014年「部落差別をなくする運動」強調旬間事業のメイン行事として、歴史作家・井沢元彦氏が7月9日、同市内の県民文化ホール・グリーンで講演した。実はこの井沢氏、2010年に県と県教委主催の同事業で招かれ高知で講演しているが、あれから4年。今度はどういう話かと思ったが、内容は4年前と寸分違わず、既視感すら覚えた。

話の大半は黒人差別やキリスト教とユダヤ人差別についてで、後半にようやく部落差別の「根源」についての言及がある。井沢氏の言わんとするところは、今回も4年前もおよそ以下のようなものだった。

日本人は無宗教といわれるが無意識の神道信仰があり、死への「穢れ」意識がある。故に皮革や食肉など死にかかわる人々への忌避意識が部落差別の根源にあるという内容。「汚れ」と「穢れ」は違い、「穢れ」はメンタルなもの=迷信。自分用の茶碗や箸にこだわるのは日本人だけ、自分以外が使用した歯ブラシを消毒済みでも使うのが嫌という感覚は「穢れ」意識のあらわれだという。

この手の話は、一頃まで盛んに部落解放同盟も言っていた部落差別の根源は徳川幕府が士農工商の下に賤民身分を作ったという「政治起源説」とは一線を画している点で興味深さもなくはないが、研究者でもない歴史作家が「日本人の意識」や宗教観について自説を開陳しているという以上でも以下でもないという
のが率直なところである。

井沢氏は、日本人の部落差別の「根源」は、神道的な迷信信仰にあるとしているが、「日本人には神道信仰がある」という決めつけからして乱暴に過ぎる。

結局のところ日本人の奥底には差別意識が刷り込まれており部落差別は簡単にはなくならない、差別意識は根深いという話になっていくわけであるが、さすがにそれだけで終わってしまっては「部落差別をなくする運動」の人権研修としてはいかがなものかということになるので、4年前も同様であったが井沢氏は「穢れ」は迷信であるから、部落問題を「寝た子を起こすな」にするのではなく、このような意識が日本人にあるということを自覚させなければならないと付け足して講演を終えた。

だが、今の若い世代に、かつての「穢れ」意識が部落差別の根源にあるということを声高に伝えなければならないとは全く思えないし、「穢れ」意識の拡散は、一部残る部落問題の課題の解消に繋がるどころか逆効果だろう。遅れた意識を解消させるために、遅れた意識を拡大再生産させるのはマッチポンプでしかない。

もしやることがあるとするならば、纐纈あや監督のドキュメント「ある精肉店のはなし」のように、タブー視されてきたと畜や食肉、皮革の労働現場を徹底して可視化し、事実から出発することだろう。そうすれば職人の技術や労働、「命をいただく」ことへのリスペクトが自然とうまれてくる。

なぜ迷信を今になってまき散らさなければならないのか。井沢講演を聞き終え、4年前と同じ疑問が頭から離れないが、同時に特定の考え方だけではなく、いろんな考え方を聞いて市民自らが考えるきっかけにするということは必要なことかもしれない。高知市には来年はぜひ「ある精肉店のはなし」の上映会でも考えてもらえないものかと思っている。(N)(2014年7月20日 高知民報)