本当に必要か「集団的自衛権」(上) 時代に逆行 「集団的安全保障と矛盾」

 
集団的自衛権行使を「一定必要」と答弁した尾ア知事(10月1日、高知県議会)
尾ア正直・高知県知事は、安倍政権が憲法解釈を変更することで集団的自衛権の行使を認めようとしていることについて見解を9月県議会で述べ、「一定の行使は必要」と集団的自衛権行使に踏み込みながら、憲法解釈の変更で認めるなし崩し的手法には否定的な考えを示しました。知事答弁には集団的自衛権についての認識が十分でないと思われる点も垣間見え、矛盾を孕むものになっています。

10月1日の県議会本会議で尾ア知事は、浜田英宏議員(自民党)、中根佐知議員(共産党)の質問に答え、集団的自衛権を一定行使すべきとする理由として以下のように答弁しています。

「これまで政府は、憲法9条のもとにおいて許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するための必要最小限度の範囲にどめめるべき、集団的自衛権はその範囲を超えるもので、憲法上許されないとしてきた。しかしながら、アジア太平洋地域における緊張の高まり、領土問題等不安定要素の存在、大量破壊兵器や弾道ミサイルの技術向上、拡散など安全保障上の問題が多様化し、きびしさを増す中、いずれの国も一国では自らの平和と安全を維持しにくい状況があり、同盟国との連携、国連の集団安全保障の枠組みの重要性が増しているのも事実であり、総合的かつ戦略的な対応が必要だ」

似て非なるもの

この尾ア知事の認識は概ね正確であり、国際的協調と国連の「集団安全保障」を重視することは国際政治の潮流にも沿うものといえますが、注意しなければならないのは、知事答弁からは国連の「集団安全保障」の重要性は見えてきても、国連の集団安全保障とは異質な「集団的自衛権」の必要性を説く説明にはなっていないこと。

「集団安全保障」と「集団的自衛権」を、なぜか混同させるような議論を展開していることが気になります。

「集団安全保障」とは、たとえば喧嘩を当事者だけの問題にせずホームルームで取り上げみんなで解決することであり、「集団的自衛権」は友人が殴られた時、自分は殴られてはいないが代って「お礼参り」(仕返し)する「権利」に例えることができます。

つまり、この両者は「集団」という言葉は似ていますが、まったく似て非なるものなのです。

ソ連によるハンガリー事件、プラハの春=チェコスロバキア侵略、アフガン侵攻、アメリカによるベトナム戦争、ニカラグア介入、アフガン戦争(9・11テロへの反撃として)、フランスのチャド介入など、世界の歴史を振り返れば、「集団的自衛権」は、同盟国が「武力攻撃」を受けたということを無理矢理こじつけ、国連の同意を得ることができない枠から外れた報復的な大国の軍事行動、覇権主義と侵略の代名詞としてだけしか発動されていないのが紛れもない事実です。これらの戦争は国連の枠から外れているが故に、泥沼化して長期化し、多大な犠牲が出る傾向が強くあります。

時代遅れ

国際政治の流れは、大国の勝手で報復的な「集団的自衛権」の発動ではなく、シリアへの武力行使が国際的な議論で回避されたことに見られるように、国連の枠組みの範囲で極力軍事行動を避けることを追求する方向であることが明らかです。

歴代日本政府が、これまで長く「憲法上の制約があるため行使できない」と国際社会に発言してきた「集団的自衛権」を、安倍内閣が憲法の解釈を変えるだけで行使するなどということは、国際社会からは異様極まる行動にしかみえないでしょう。

少なくとも尾ア知事が「国連の枠組みにおける解決が大事」と言うことを理由にして、それと矛盾する「集団的自衛権」の行使を「一定認めるべき」とすることは、論理の矛盾ではないでしょうか。(つづく) (2013年11月3日 高知民報)