2013年2月17日

コラムアンテナ 「森田益子氏自伝の読後感」

長く高知市議、県議を務めた部落解放同盟高知市連絡協議会元議長、今も同市協の最高実力者で高知市政に隠然と影響力を持つ森田益子氏が、88年間の生い立ちを綴った『自力自闘の解放運動の軌跡』を昨年11月に、解放出版社から出版した。

書かれているのは森田氏の貧しい子ども時代、解同とのかかわり、介護保険事業「やさしいグループ」を展開する過程などで、森田氏から見た高知県における「部落解放」運動史になっている。

「部落民以外は差別者」で知られる浅田理論への傾倒、職員採用などでの高知市行政への介入、坂本昭市長との深い関係、さらには解同県連内の抗争などが、オブラートに包まれて、かつ時系列が前後して理解しにくい部分も多いが、歪んだ同和行政の実態を記録する貴重な証言であることには違いない。

「差別を憎んで人を憎まず」、「仕事保障を最大の課題に取り組んできた」などという自画自賛とともに、日本共産党への悪罵に多くの頁がさかれ、解同組織を「反共産党」をバネに固めてきたやり方も手に取るように分かり興味深かった。

ここまでならよくある話なのだが、どうにも看過できない部分があるので指摘しておく。その一つは「澤谷裁判」に関する記述である。

この裁判は1990年に高知市立朝倉中校長だった澤谷楠寛さん(当時59歳)が、荒れる学校への対応、さらには「朝中の同和教育はなってない」と同盟休校を構え、学校に介入しようとする解同市協と対峙する中、心臓発作で死去したことの公務災害認定を巡り、解同の圧力を公務災害と認めるか否かが争われ、遺族が勝利し公務災害が認められた事件である。

森田氏は、この裁判について、遺族が「共産党の差別キャンペーンに乗っかった」などと書いていた。

公務災害がいくら認められようとも、故人の無念さ、遺族の悲しみを思えば言葉もない。その気持ちを平然と逆撫でする感覚は何なのだろうか。ここまで非常識な文章を自伝に載せる感覚は理解しがたい。

小笠原政子さんの出自を暴いたことで森田氏本人が被告として裁かれた「一ツ橋小裁判」についても、「私は一切自分自身が間違っていたとは思っていません」などと負け惜しみのようなことが書かれていた。

これは森田氏の人権感覚の水準もあるのだろうが、「やめておけ」と諫言する人物が彼女の周囲に存在しないのか、それとも言っても本人が聞く耳をもたないのか。

森田氏は「差別がある限り、最後の血の一滴まで闘い続ける」と意気盛んであったが、読み終わり、なんともいえない物悲しい読後感が残った一冊だった。(N) (2013年2月17日 高知民報)