2012年1月1日

世界に恥じない国とは 龍馬と自由民権つなぐもの 松岡僖一・高知市自由民権記念館長

 松岡僖一・高知市自由民権記念館長
松岡僖一・高知市立自由民権記念館長(65)に、土佐の自由民権運動と幕末の
討幕運動や坂本龍馬との関係、これからの研究テーマなどについて聞きました。(聞き手・中田宏)

−−松岡館長は土佐勤王党から自由民権運動への連続性について話されてい
ますね。

松岡 土佐勤王党と自由民権運動の連続性を強調しているのではありませんが、土佐において、ある日突然に板垣退助や植木枝盛が現れて、民権運動が盛んになったのではなく、その前史として坂本龍馬たちの動きがあったということを言いたいのです。

龍馬は明治という新しい時代の扉を開ける寸前に暗殺され、彼が果たせなかった課題は明治に持ちこされました。その課題について龍馬が関係した主要な文書には「世界に恥じない国家」という表現で示されており、「薩土盟約」には「国体を匡正し万世万国に亙りて不恥、是れ第一義」、「薩土芸三藩約定書」には「宜しく弊風を一新改革して、地球上に愧ぢざる国本を建てむ」と記されています。

龍馬の考えた「世界に恥じない国家」というイメージは、「船中八策」に示されており、海軍・外交を除けば立憲政体樹立に集約されます。立憲政体樹立は明治国家の基本的課題となりました。岩倉使節が廃藩置県からわずか3カ月しかたたないうちにアメリカやヨーロッパに出かけたのは、日本が目ざすべき立憲政体モデルを探すためでした。

−−立憲政体をめぐり政府で意見が対立します。

松岡 改革モデルの相異により政府は分裂します。岩倉具視たちがモデルに見出したのは、ウイルヘルム一世をいただいたビスマルク率いるできたばかりのドイツ帝国でした。これに対して留守政府で改革を進めてきた板垣退助たちは、どちらかといえばイギリスをモデルにしていました。

同じ「立憲政体」とは言っても、ドイツ型とイギリス型はずいぶん異なります。ドイツは市民革命を経ていません。イギリスは200年近くも前に市民革を経ている。この相異は人権に関する認識の相違に収斂します。

ドイツ型では人民は生まれながらにして人権を持つのではなく、君主が臣民に与えるものでした。これに対しイギリス型では人は生まれながらにして人権を持っている。

新政府は分裂し、下野した板垣たちは自由民権運動を始めますが、政府と民権側の対立軸は人権でした。そして自由民権運動は敗れ、明治憲法が生まれて1945年8月15日の敗戦まで続きます。

しかし権利の為に闘った記憶は、地下水の如く流れ続け、大正デモクラシーや戦後の民主化運動として噴出することになります。

−−龍馬が生きていたら、どちらを選択したと思いますか。

松岡 それは分かりません。ただ、日本は日清・日露の戦争に勝利して軍事「大国」になり、日露戦争の時には龍馬は軍神に祭り上げられました。しかし、大国になる為に日本人だけでなく、アジアの人々の血が夥しく流されました。これが龍馬が目指した「世界に恥じない国家」とは思えません。

−−今、龍馬と自由民権運動をつなげる意味は何ですか。

松岡 龍馬人気にあやかりたいとうことではありません。龍馬の残した課題が何であり、その課題のどの部分が誰に担われ、その後どうなっていくのか。現代人にとり、「世界に恥じない国家」とはどんな国なのかを一緒に考えたいのです。少なくとも土佐の民権家たちは「世界に恥じない国家」とは人権が保障される民主的な国家と答えたに違いありません。

−−これからの研究テーマを。

松岡 今さら民衆にとって自由民権運動とは何だったのかを問いたい、と言うと笑われるかもしれませんが・・・。土佐の運動が全国の運動を10年間も引っ張ったのは、民衆の運動が大規模に成立したからです。夥しい夜学会の成立、夥しい懇親会、新聞の葬式に参加した夥しい人の群。 彼らは運動に何を期待していたのか。乱痴気騒ぎのような自由民権運動は彼らに何を痕跡として残したのかを考えてみたい。反省も含め、きっと等身大の運動が見えてくると思います。

松岡僖一(まつおかきいち) 高知大教授を経て2009年4月から同館長。香川県生まれ。愛媛大卒。名古屋大大学院時代から土佐の自由民権運動研究に取り組む。(2012年1月1日 高知民報)