2012年1月1日

人の心に染みる歌を ジャズ・シンガー 堀江真美

 
森寿男とブルコーツのステージ
高知市出身のジャズボーカリスト、ピアニストの堀江真美さんにインタビューしました。

−−堀江さん音楽の原点は。

堀江 母に教えられた琴、邦楽ですね。ピアノは独学です。19歳で東京に出て芸能界入りし、ニューミュージックでデビューが決まっていたのですが、「何か違うな」と。クリエイティブさとかけ離れる芸能界の雰囲気になじめず断りました。それから、なんとなく水面下で(笑)音楽をやってきたのですが、東京でアメリカのジャズミュージシャンと仕事をする機会が多かった。

80年代のバブルの頃は、質の良い音楽を日本人は求めていないと感じ、音楽から離れモトクロスのレーサーをやってました。エネルギーは有り余っている(笑)。音楽活動を再開してからは、六本木の「BODY&SOUL」という老舗ジャズバーのハウスシンガーをやり、アメリカから来たメンバーと組んで演奏していました。

「BODY&SOUL」の頃、岩浪洋三さん(元スイングジャーナル編集長)から「堀江真美を売り出そう」とCDを出す話を頂いたのですが、勘だけでやってきた自分のスタイルに限界を感じ、「これではいけない」と逃げ出しました。二度もメディアに出るチャンスを自分から断ってしまった。

でも「BODY&SOUL」や当時の活動では一流ミュージシャンとセッションする機会に恵まれ、東京に居ながら英語圏、素晴らしいメンバーに本当のアメリカのエンタテインメントを修行させてもらえました。

今は森寿男さんのブルコーツ、豊岡豊さんのキューバンフェイスというオーケストラで専属シンガーをやってます。ずっとオーケストラで歌いたかった。日本を代表するビッグバンド、ラテンバンドで歌えて夢が叶いました。

−−お母さんの話を。

堀江 母は看護師で国立池療養所や高知市民病院、「土佐希望の家」で働いていました。労働組合のデモにいったり、正義感の強い献身的な看護師でした。今は東京で一緒に暮らしています。母は満州出身で、引き揚げの時に食べ物がなかったことなど毎日聞かされました。私の音楽の先生も母。小さい頃から「楽譜を見ないで心で弾きなさい」と言われました。

「希望の家」ができたばかりの頃、私は中学生でしたが、母について入所者のお風呂や食事を手伝いました。とにかく人手が足りなかった。そんな経験もあります。

−−アルバム『アゲイン』で古いジャズを歌っていますね。

堀江 数年前、母に「私たちが楽しめる音楽をなぜなくしてしまったの」と言われました。老人が生きていて良かったと思える音楽をどうしてやらないのかと。

これをきっかけに、しばらくフュージョンやゴスペルに行っていたのですが、スタンダード・ジャズに戻り、『アゲイン』というナンシー梅木(終戦後活躍したジャズ歌手)をトリビュートしたアルバムを出しました。あえて戦後ジャズを復刻しました。原曲のアレンジは一切変えなかった 素晴らしいものを変える必要はない。

戦後の何もない時代に、音楽は心に染み人の支えになった。そんな音楽がまたできないだろうかと、母の言葉を聞いて思い、もう一度ジャズを歌おうと。「母に恥ずかしくないアルバムを」と思って作りましたが、母は「いいね」と言ってくれました。

−−今の日本のジャズシーンについて。

堀江 日本のジャズにはルーツ、幹がない。だから手を一杯動かしたり、音をたくさん出すことでその不安から逃れているように思えます。無駄な音を削って大事な音だけを出すのではなく、質ではなく量。テイストがない。退化しています。普段はこんなことはあまり話しません。話すより音楽で実証する。天国のエリントンやベイシーは私の味方ですから(笑)。

−−堀江さんにとって音楽とは。

堀江 音楽は命。死ぬまで修行です。焦りはあります。学ぶことが多すぎて時間が足りない。死んでからも勉強ですよ、私は修行するため生まれてきたと思っています。自分を知るためにジャズをさかのぼり、ブルース、ビバップ、ジャイブ、モダンジャズをやりましたが、実は音楽にジャンルはない。音楽ってすごく単純で、蝉が鳴くのと同じなのに、人間は難しく考えたがる。そのほうが儲かるから。音はシンプルで少ないほうがいい。自由になるために音楽をやるのに中途半端だと不自由になるんです。

−−高知への思いを。

堀江 「一人前になるまでは」という思いが強く、長く帰っていませんでしたが、昔働いていた「結城」(柳町)のオーナーが「一度帰ってこないか」と声をかけてくれました。心で高知を忘れたとはありません。旭の街並みの夢をよく見ます。大切だから帰れなかった。郷里でまさかこんなに喜んでもらえるとは思いませんでした。私の音楽で役に立つことがあるなら、お返ししたい気持ちで一杯です。

ほりえまみ 高知市縄手町出身。旭小、西部中を卒業。県立丸の内高2年で中退し、プロ活動に入る。ジャズボーカル、ピアニスト、ソングライター、アレンジャー、ボイストレーナー、秋川雅史「千の風になって」のピアノ編曲と演奏、ゲーム音楽、ミュージカル作家などで多彩に活躍。2011年秋に35年ぶりに帰高しライブ、「土佐希望の家」の訪問、母校旭小学校で演奏した。(2012年1月1日 高知民報)