2011年6月19日

連載 尾崎県政の4年間 「対話と実行」は本物か
G教育行政における変化

最後の県議会に臨んだ大崎博澄教育長(2008年3月19日)
2007年11月に尾ア県政が誕生してから最も大きく変化したのが教育行政だった。

2000年代になり全国的に国家統制的な教育反動化が加速。06年にはその総仕上げというべき改悪教育基本法が施行され、07年には全国学力・学習状況調査(以下全国学テ)が始まる。

この時期と尾ア県政のスタートはちょうど重なることになるわけだが、このような全国的な流れに加え、尾ア知事のキャラクターと教育長人事などが加味されて、学校の現場では上意下達的な雰囲気が年々強まっていることを多くの教育関係者が口にする。

橋本県政時代に取り組まれた「土佐の教育改革」は(96年から06年)、「子どもを主人公に、開かれた学校づくり」をめざし、県教育委員会をはじめとする教育行政・教職員組合・保護者・地域などが「子ども」を真ん中に置いて協力共同を広げようとするもので、その可能性を開花させたとはいえない不十分さを持ちながらも、国家統制的な教育反動化とは一線を画した価値観で子どもを教育の主体として位置付け、子どもの実態から出発する教育につながる可能性を秘めた注目すべき取り組みであった。

しかし、前述した全国的な教育反動化の巨大な流れ、自民党県議団文教族をはじめとするバッシング、これに呼応する県教育委員会事務局内外の教員OBらの跳梁により、その掲げた理念は見えにくくなり、とりわけ後期になってからは現場教員の支持が急速に失われていくことになった。

尾崎県政は「土佐の教育改革」が目指そうとした「子どもを主人公」に重き置く方向性から、県教委という組織が定めた方針の実現のために教員が動くことが重視される方向へと、高知県の教育のあり方を根底から転回させる選択をする。

県教委事務局を率いる要の教育長人事は、08年4月から前県総務部長の中沢卓史氏に交代することになり、橋本知事に抜擢され8年間教育長を務め、「土佐の教育改革」に深く関わって弱い立場の子どもを守ることに熱意を傾けてきた大崎博澄氏は引退することになった。

大崎教育長時代(2000年から08年)は全国学テの導入や「国旗・国歌」問題など、教育の反動化と学校現場の多忙化が一気に進行した時期。その具体化が大崎氏の名で現場に下ろされることも多く、教職員組合からの批判は少なくなかったが、橋本知事=大崎教育長の体制が、持ち込まれる教育の反動化をいくらかでも緩和する役割を果たしていたことは間違いないことだった。

全国学テに懐疑的な思いを持っていた大崎氏は後に「やらないとはなかなか言えません。国の報復がありますから。加配教員をつけないとか」と当時の心境を述べている。

ところが、尾ア知事=中沢教育長体制になり、いくらか残存していたバリアも取り払われ、国の「風」がダイレクトに高知県の学校に吹き込むようになった。

中沢氏は「ベクトルをあわせる」、「組織としてのミッション」という言葉を意識的によく使っている。命令一下、一糸乱れず動く組織をイメージさせるが、その感覚は国家統制的なものというより、ビジネスのマネジメント理論に近い感覚である。いずれにしても人間を育てる教育とは異質のものだろう。

子どもは発達段階にある一人一人が個性を持つ人間。教育の目標は「人格の完成」という崇高ではあるが極めて抽象的なものであり、組織として数値に置き換えて目標の線を簡単に引けるようなものではない。

子どもの現実からスタートしない教育はありえず、教育行政が決めた目標に向かい、教員を走らせようといくら尻を叩いても、結果的に子どもは置き去りにされ、高知県の教育が抱える困難が解決はできない。このあたりの方向感覚のズレが、後の様々な施策の学校現場での摩擦につながっていくことになる。(つづく)
(2011年6月19日 高知民報)