2011年4月17日

急がれる地域づくり 高知市保健所長に聞く

堀川俊一・高知市保健所長
宮城県南三陸町に3月27日から4月1日まで支援に入った堀川俊一・高知市保健所長(公衆衛生医)に現地の状況を聞きました。

堀川 主に津波の被害を免れた山間部の家や避難所をまわった。被害ははっきり分かれていて、津波がきていないところは普通の家。しかし、インフラが途絶していた。電気、水道、固定電話(携帯電話は少し使えるようになってきた)、ガソリン。 家は普通でも食料がなくなり、津波に遭わなかった人たちも食料配給に頼っていた。

町の組織自体がなく、町長はテレビに出てくるが、ラインとしてつながっている感じがみえなかった。それぞれが一生懸命にやっている。避難した町職員がたまたまいた避難所の世話係になり面倒みていた。

我々は厚労省の依頼で住民の保健支援に行ったのたが、兵庫県が大型バスで町行政支援に来てから話が進み出した。230人くらいの町職員で40人近くも死亡や行方不明になり、避難所に貼り付いているので絶対数が足りない。役場自体が影も形もなく、住民基本台帳も全部なくなっていた。

住民のコミュニティがしっかりしていたことが印象深い。3世代家族が多く独居が少なかった。高知では3世代はあまりない。一人だと情報が入らない。若い人がいるから情報が入ってくる。区長会もきちんとしていた。翌日には山の奥の家もにきちんと情報が伝わっている。

避難所では自衛隊が日に2回運んでくる飯を班ごとに分かれて当番でおにぎりをつくり、薪で数百人分の汁物も作っている避難所もあった。

南海地震の時の高知市の食料分配は大きな課題だ。人口が2万人足らずの南三陸町で48の避難所。高知市なら軽く数百になる。ここに毎日2食を届けなくてはならない。さらに被災地以外の地区にも。

情報伝達には課題があった。使えるコピー機が本部に1台しかなく情報伝達が難しかった。伝言ゲームになる。避難所には伝わるが、周りの地区は知らなかったり。コミュニティがしっかりしているのだから、情報を流せばもっと伝わるはず。

ローテクが強い。トイレが大変だった。くみ取り式は紙だけをビニールに入れて使え、水洗トイレはプールの水をバケツでくんで流せば使えた。センサー式の最新式は全然使えなかった。トイレ問題は本当に大きい。高齢者は夜中も小便にいく。避難所では真っ暗な中を外まで行かなければならないので歩ける人でも「紙オムツにしてます」という話も聞いた。

私の仕事は手洗い指導くらいしかなかった。感染症予防は石けんで手を洗うのが基本。でも手を洗う水がない。アルコールを使ってもらうくらいのことしかできなかった。住民に下痢が出始めていた。家をまわると一週間以上薬を飲んでない糖尿病の人もいて、ガソリンがないので取りに行けない、どこにあるのか知らない。本部にいけばあらゆる薬があり、各種の支援物資も大量にあるのだが、必要なものを必要なところに届けるのが難しい。

住民は被災から3日間は自らの炊き出しで耐えた。被害に遭わなかった地区の人は、3月11日の晩に余震の中を被災地区に炊き出しを持っていったというからすごい。地域のつながりで、逃げ、初期を生きのびなければならないし、長
期戦になれば地域のつながりが一層重要になる。こういう地域づくりが、まずはないと南海地震には耐えられないと思う。(2011年4月17日 高知民報)