2011年4月10日

東日本大震災 高知医療生協が宮城県で救援活動

(上)3月28日の報告会(高知医療生協事務局)、(下)坂総合病院でのトリアー
ジ作業
高知医療生協は、東日本大震災による被災者を支援するため片山曜子看護師(51)、事務職員の岡村和彦さん(51)を宮城県の坂総合病院に派遣。3月28日には高知市口細山の同生協事務局で報告会が開かれ、患者が詰めかける同病院の様子や、避難所にインフルエンザが広がっていることなどの現状がレポートされました。

片山看護師は塩竃市・多賀城市の被災者宅や避難所訪問に従事。岡村さんは津波被害にあった松島医療生協診療所のカルテの片付け、坂総合病院でトリアージ(患者の緊急度を分別する作業)などに取り組みました。

2次隊として四万十診療所事務職員の宮本研一さん(43)が派遣されました。

片山曜子看護師の報告

3月23日9時に東京の全日本民医連本部に集合し、40人ほどが大型バスで宮城に向かった。沖縄、愛知、大阪、富山、東京、千葉などから集まっていた。宮城出身で両親が被災したドクター、足浴を避難所でやりたいので行かせてくれと職場に頼み込んできた奈良の介護士もいた。理由は様々だが「何か役に立ちたい」という思いはみんな同じだった。

私が行った日は200人以上の支援者が入った。医師、看護師、薬剤士、理学療法士、検査技師などの技術系、事務系、介護福祉士などが参加していた。病院の8階の大きなフロアで寝袋で寝泊まりした。

主な任務は病院や診療所の日常業務の援助や片付け、避難所周り、被災地訪問。24日は被災地訪問に参加。6人が1組になり5チームで地域に入った。

医師は北海道から来た先生。愛知民医連の人と一緒だった。塩竃港から遠くない北浜という高台以外は全部1階を津波に飲み込まれた所。テレビでは伝わらないヘドロのにおい、寒さを実感した。直前に水道や電気が通ったので、掃除をしていた人がぼちぼち見られ、声をかけながら一軒一軒訪問した。

新しい家はなんとか残っているが、古い家は倒壊しているため、避難所に行っているために一人暮らしの高齢者はほとんどおらず、残っていた高齢者は若い人と一緒に住んでいることが多かった。

「坂総合病院からきました。困っていることはないですか、体調を崩してないですか」と話しかけながら歩いたが、みなさん嫌な顔一つせず、被災の時のことや困っていることを話してくれ「ありがとうございます」と礼を言われた。
   塩竃市での活動を報告する片山曜子看護師

炊き出しのリーダーをしている人が自分のマンションに高齢者を集めて住まわせているという話を聞いたので、お邪魔して3人の高齢者のバイタルを測り、体調の相談に乗ることができた。「津波がきた時は2階に逃げていたが、2階も浸かりそうな勢いになり、恐ろしくなって何とか3階に逃げた。不安感から夜中になると胸が痛くなって救急車で運ばれた人がいる」と言っていた。避難所でもそうだが、精神的に不安定な人が多くなっている。 ほとんどの人が2階でカセットコンロで煮炊きし、避難所から物資をもらって暮らしていた。

翌日は医師と避難所をまわった。12〜13人の医療隊5チームと足浴隊3チーム。天真小学校という建てられたばかりの学校に行った。950人も入っていて、体育館や各教室に分かれていた。 昼間は後片付けなどに出て250人くらいに減るが、夕方3時、4時頃になると帰ってきて避難所に泊まるという生活。

インフルエンザ患者が出ていた。蔓延が心配。肺炎疑いの人もいて、医師が付き添い坂総合病院に運んだ。体調を崩す人が増えてきている印象。診察代を気にする人が多かった。阪神大震災後に、自己負担の猶予が免除になったことが知らされておらず、診察するたび「お金がいるんですか」と気にする人が多い。

地震直後からお漏らしが始まった子どもいる。まったく話さず食事もしない高校生くらいの子がいて名前も言えない、知っている人もおらず行政に預けることになったという話も聞いた。

何も言葉がでなかったが、みなさん淡々と話してくれ、笑顔も見られたので、かえってこちらが「ありがとうござました」といいたいほど。みんな頑張ってました。(2011年4月10日 高知民報)