藩政時代に「御留山」として立ち入ることが禁じられていたため、豊富な自然が残る山として知られる津野町の不入山(いらずやま、1336メートル)で香川県綾川町の44歳の男性が7月25日に行方不明になり4週間が過ぎましたが、8月17日現在手掛かりはなく、生存は絶望的となっています。遭難の原因、捜索の問題点や課題などについて考えます。
遭難した男性は香川県の町内会8人グループの一員として7月25日の正午頃、不入山北東の林道入口(標高約900メートル)から登り始めました。標高差400メートル程度、ガイドブックなどでも紹介されている片道2時間強で気軽に登ることができるポピュラーなコースです。
登っている途中で足が痙攣したメンバーが出たために(遭難者とは別人)、2時間30分ほどかかって一行は山頂に到着。15時頃に往路を戻るコースで下山を開始し、17時頃に登山口に戻ったところ、前から5番目を歩いていた男性の姿が見えなくなっていました。メンバーは懐中電灯を手に真っ暗な登山道を登り返して男性を探しましたが、見つけることができず、仁淀川町側に車で下り21時38分に公衆電話から救助を要請しました。
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山中にルートを外しそうな箇所はいくつもある |
■問題1 入山時刻
パーティの入山時刻が正午というのが目を引きます。山は早立ちが基本。なぜこれほど遅いのか。遭難パーティーに聞くと「四万十川源流点によってから登った」。
入門コースとはいえ往復4時間以上の行程であり、トラブルがなくても下山は16〜17時になる計画でした。
夏場の午後は天候が不安定になることも多く、アクシデントがあればたちまち日没。時間がないというあせりが事故を誘発する可能性も高まります。遭難パーティのリーダーによると「夕立が降りそうな空模様になってきたため、先頭があわてていたようだ」。遅くても15時には下山する計画にするべきでした。
■問題2 パーティの分裂
足の調子を崩したメンバーのペースが遅れたことから、下山時にはパーティが自然発生的に前5人、後ろ3人のグループに分裂。最終的には間隔が30分ほども開き、遭難男性は前のグループの最後尾になっていました。最後尾はもっとも力量のあるリーダーが歩き、不慣れなメンバーは前から2番目付近に配置するのがオーダーの鉄則。軽度の知的障害を持ち体力も強くないという配慮が必要とされるメンバーが意図せずして最後尾を歩き、ルートを外したことに誰も気が付くことができませんでした。
山中でグループは常に一体で動くのが大原則ですが、仮に分けるのであれば、自然発生的にではなく、メンバー全員で確認しあい、オーダーを組み換え配慮が必要なメンバーを前方に配置するなどしていれば避けられた事故であるといえます。
■問題3 捜索打ち切り
7月25日夜に救助要請があり、翌26日から28日までの3日間、地元消防団、消防・警察、森林組合関係者など延べ400人が山中を捜索しましたが、手がかりは得られませんでした。
この間、雨が多かったために稼動時間は長くなく、県消防防災ヘリも点検中のために飛んでいません。「登山道はしっかりしており登山道から外れることは考えにくい。3日間は探すという不文律があるので、遭難者の関係者にも納得してもらい態勢縮小を判断した(地元消防団関係者)」。捜索本部は28日夕で解散。以後は車両で車道を巡回する程度で、事実上捜索は打ち切られました。
遭難者は44歳。夏場の遭難では一週間以上生存していた事例が全国に数多くあることから、この時点での打ち切り判断が適切だったのかどうかには疑問が残ります。
事故発生から1週間が経過した8月1日以降は、愛媛県大野ケ原の食堂で遭難者らしき人物が「脱藩の道を歩く」と話していたという距離的にも状況的にも考えられない情報に振り回され「失踪説」に傾き、山中に目が向かないような状態も生まれました。このような状況下で、高知県勤労者山岳連盟の有志19人が独自に7月31日、8月1日、山中の捜索に入っています。
捜索打ち切り判断の是非、地元と山岳捜索のスキルを持つ登山団体との情報交換、情報の取り扱い方など、山での捜索活動のあり方について今後に課題が残されたといえます。(2010年8月22日 高知民報) |