2009年8月2日

「人権教育」って何なの? 梅田修・滋賀大教授が講演 「差別意識」は本当に根深いのか

講演する梅田修・滋賀大教授
かつての「同和教育」にかわって教育現場に浸透している「人権教育」とは何なのか−−。梅田修・滋賀大学教授を招いた学習会「今、人権教育を考える」が7月24日、高知市の高知城ホールで開かれました。「人権と民主主義、教育と自治を守る県共闘会議(県人権共闘)」らでつくる実行委員会の主催(四万十市教委など10地教委が後援)。この日は高知市教委が補助金を支出する高知市人権教育研究協議会(市人教)の研究集会が開催されており、上からの研修ではなく、自主的な研修を求める教職員らが県下から参加しました。

開会にあたり窪田充治議長は「同和行政をめぐる情勢は大きく変わり、すっきりした時代になったが、一部に依然として解同理論が横行している状況がある。全国的な人権教育の状況を学んでもらいたい」とあいさつ。

梅田教授は、1996年「地対協意見具申」で「人権教育」実施の理由とされている「差別意識」の根深さについて、「根深さはどこでどのように立証されたのか」、「希薄化しているというのが事実にあっている」と述べ、「人権教育」の出発の議論が誤っていると指摘。また「人権教育」の概念は今もって明確でなく、専門家でも道徳教育と同義であったり、総合的な教育と言っている状況を報告し、「人権に関係しない教育はなく、人権教育とあえて言う必要などない」と指摘し、やるならば「人権としての教育」を柱にすべきだと強調しました。

講演会終了後には、県人権共闘の09年度総会が開かれ、以下の役員を選出しました(敬称略)。議長=窪田充治、副議長=鎌田伸一、原淳、西山潤、高橋豊房、小笠原政子、米田稔(ここまで再)、事務局長=畑山和則(新)。



講演内容の紹介

「差別意識」について

梅田 96年「地対協意見具申」に「国民の差別意識は解消にむけて進んでいるものの、依然として根深い」と書かれ、「人権教育・啓発」が突然出てきた。差別意識とはどういう意識をさすのか。偏見とどう違うのか。はっきりしない。なんとなく差別意識という言葉が使われている。「依然として根深い」というのが「人権教育・啓発」の根拠になっている。「根深さ」はどこでどのように立証されたのか、政府文書にも出てこないが、強調されている。心の中の問題の立証は困難だ。

同和問題は完全には解決していないので、差別意識が完全になくなったとはいえない。差別的意識を持っている人はいるが、どの程度の意識なのか。強いのか弱いのか、浅いのか深いのか。

「あなたは妻や夫を愛していますか」と聞かれれば、大概の人は「はい」と答えるが、「どの程度愛しているのか」と聞かれても困るのではないか。にもかかわらず、いとも簡単に「根深く存在している」と言っている。

「根深い」というなら二つの事実がいる。

@その地域で部落住民に対する差別的な言動が頻発している

Aその地域で部落住民を差別的に排除する差別的な慣習が残っている

こういう事実があれば「根深いかも知れない」という推測はできるが、実際には差別的言動はほとんどなく、激減している。頻発しているなどとはいえない。差別的慣習もないだろう。あれば大問題だ。差別意識は「根深い」というより「希薄化」していると言うほうが事実にあっている。 「根深い」というキーポイントが崩れたら「人権教育」はなかったはずだ。「人権教育・啓発」の出発になっている基本的な認識が一番問題。このような問題点を持ちながら「人権教育・啓発」は出発した。

タテの問題について

梅田 「公権力と国民」というタテの問題、「国民同士」のヨコの問題。人権を論議するにはタテが基本。憲法25条の生存権。国や自治体が社会保障を整備してこそ、国民の生存権が守られる。26条の教育を受ける権利も同じ。その上で国民同士の問題もある。

人権擁護推進審議会答申(97年)の議論の中で以下のような討議があった。「79年にすべての県が養護学校を設置することを義務付けられた。それまで重度障害の子供は学校にいけないことが通用していた。『教育の保障は命の保障』というスローガンを掲げた運動でやっと実現したが、重度の子供が学校にいくようになり、79年以前に『重度の子供に教育しても無駄』という偏見を持っている人がいたとしても、養護学校に子供が入り、遅々とした歩みだが発達する姿が国民に広がる中で、『教育しても無駄』という偏見は79年以降薄れているのではないか。良い制度をつくれば、国民の意識も変わる」という質問がある委員から出た。

差別意識が生じるのは国民の意識だけに問題があるのではない。政策や制度が影響を与える。タテの問題が国民の意識に深く関連していることは当たり前だ。 

人権教育とは?

梅田 今も「人権教育」が定着せず、上からやらされているのはなぜか。「人権教育」という概念で教育実践が追求されていない。実践の蓄積がない。人権に関係しない教育はないので、人権教育とあえて言う必要がない。言うとすれば二つの側面、@「人権としての教育」、A「人権についての教育があり、基本的人権にふさわしい教育の実現をめざす実践としての「人権としての教育」がより重要だ。(2009年8月2日 高知民報)