2005年1月1日新年特別号に掲載


新春インタビュー


高知で歌うことに意味がある 毎週の「歌小屋」ライブ続けます

                  シンガー・ソングライター 矢野絢子


    「歌小屋の2階」でライブ終了後に

やのじゅんこ 1979年生まれ。25歳。自宅は土佐市。伊野中学校卒、県立北高中退後、ライブハウス「歌小屋の2階」(高知市桟橋4丁目)を拠点に活動。ピアノを買いたくてたまたま出たコンテストでスカウトされ2004年5月に「てろてろ」でプロデビュー。ピアノ弾き語りによる強烈な個性、高知にこだわるスタイルに注目が集まる。セカンドシングル「夕闇」、アルバム「ナイルの一滴」をリリース。1月19日に井上陽水のカバー「氷の世界」を発売。

◇くれない保育園(共同無認可保育所)に通っていたとか。

 矢野 2歳の頃なのでなんとなくなんですけど覚えてます。保育園はもうなくなってしまったそうですが、園長先生がすごくいい人だったと聞いてます。

◇音楽との出合いは。

 矢野 北高校の時にバンドをやっている人と知り合いになってキーボードをやってました。そのうち桟橋通りの「メキシコ・シティ」というライブハウスでオリジナルをやるようになったのですが、これが面白くて面白くて。高校は3年まで行ったんですけど、ライブに夢中で単位が足りなくなってしまって・・・。良い高校だったと思います。いろんな人がいるし。98年に「メキシコ・シティ」がなくなり、しばらく「メフィスト・フェレス」という喫茶店でライブをしていたのですが、一緒にやってる仲間と「やっぱりライブハウスが欲しいね」ということになり「歌小屋の2階」を作って、そこで歌ってました。

◇軽井沢のコンテストに出て一気に走り出した。

 矢野 自分では走っているつもりはないんですけど、「歌小屋」以外で歌うようになりましたね。デビューの条件は、毎週月火水は高知にいて、火曜は「歌小屋」でライブに出る。忙しい時は東京に行ったりツアーやキャンペーンで週4日県外、3日だけ高知。飛行機に慣れていないのでしんどいのですが、少しでも高知に帰ってくると体が全然違うんですよ。
 今まで知らない人の前で歌うということがあまりなかったので、カチコチなんです。戦闘意識というか攻撃態勢。東京に対して敵意とまではいかないけど「流されたくない、なめられないように」という堅さがある。これは絶対なくならないと思うし、なくしてはいけないものだと思うけれど、少しは余裕を持てたらと思います。

◇高知にこだわる理由は。

矢野 デビュー=東京と思ってる人は多いですが、別に東京に行かなくてもできるはず。私は東京には住めないし、絶対病気になる。東京には最先端の良さもあるけど、逆に刺激がない。高知でやることに意味があると思う。東京には興味がないですね。私のようなスタイルでやっていけたら、みんなもすごく可能性がひろがる。地元で歌っている人はいっぱいいますから。野菜は地元が絶対おいしい。地元にしかない歌をうたっていきたい。

◇値札を気にしないで買い物ができるようになりたい書いてたけど。

矢野 全然だめ。ほど遠いです(笑)。でも高知で歌って食べていけたら最高。私が売れてお金が入ってきたら、夢は二つ。自分と両親の家を建てたい。そして「歌小屋」や高知で歌っている人たちを応援できるようになりたい。だからやめない。

◇新曲について。

 矢野 今までとは全然違う世界。陽水さんの曲は大好きで、以前からライブでやってました。すごく難しかったけど、楽しかった。歌えば歌うほど自分の中に入ってくる歌でしたね。私の年代だと「氷の世界」を知らない人がいるのでビックリ。私が「いいな」と思うのは古い曲が多いんですよ。「てろてろ」や「夕闇」のようなスローな曲だけでなく、パンチの効いたシュールな歌も私にはあります。これまでと違う面も聞いてもらいたい。

◇戦争や虐待など嫌なことが多いですが。

 矢野 戦争や虐待で子供が死ぬのは、すごく悲しいし、悔しい。歌は昔から人を救ってきたと思うし、私も救われた。直接「やめてほしい」とは歌ってはいませんが、本当に大切なのは愛情だし、人生をどう生きるかだと思うので、自分に恥ずかしくないように生きたい。そういう思いで歌ったら届くと信じてます。

◇2005年は。 

 矢野 頑張りすぎて疲れるタイプなので、力を抜くところと見せるところのメリハリを歌小屋のライブでも他の仕事でもつけたい。去年は曲をあまり作れなかったので、新しい曲を作ります。私にとっては曲作りは基本。後にも残るし。 これからも週に一度は「歌小屋」で歌い続けます。