2004年3月21日
故山原氏の葬儀しめやかに 2600人が記帳
衆議院議員生活30年を祝う集会であいさつする山原さん
3月8日に死去した日本共産党の元衆議院議員、連続10回当選して国民生活向上と日本共産党の発展に大きな役割を果たした故山原健二郎氏の葬儀が11日、高知市斎場で無宗教形式で行われ、2600人が記帳。大勢の人たちが山原氏をしのんで献花しました。
石井郁子・日本共産党中央副委員長、佐竹峰雄・同高知県委員長、元秘書の平野厚哉氏、元高校教員の浜田昌俊さん、春名なおあき前衆議院議員、塩田庄兵衛・東京都立大名誉教授が弔辞を述べ、不破哲三・日本共産党議長、志位和夫委員長をはじめ300通をこえる弔電が寄せられました。
■石井郁子・党副委員長の弔辞
党中央を代表して弔辞を述べる石井副委員長
11日の山原健二郎氏の葬儀で石井郁子・日本共産党中央委員会副委員長が読んだ弔辞の内容を紹介します。
山原健二郎さん、とうとうお別れの日が参りました。病魔と向き合い1年3カ月、親しい方々にお便りを書き続け、気力でたたかい抜かれました。山原さんは最後まで、「南(みんなみ)の熱き炎」の人でした。
私は、衆議院の文教委員会で一緒に仕事をし、議場に轟く情熱的な演説、気迫の追及にいつも圧倒され学んできました。不正や権力に怒りをもって容赦なく立ち向かう庶民の政治家でした。自由民権の伝統に輝く高知県民はもとより、全国のどれほど多くの人が山原さんを慕ってきたことでしょうか。今、悲しみと敬愛の念をこめてお別れの言葉を述べさせていただきます。
山原健二郎さんは1920年8月高知県本山町に生まれましたが、四国銀行に勤めていたお父さんの転勤にともない、高知県内、徳島県まで転々として小学校は3つの学校をまわりました。中学生時代、教師に反発して、2度の停学処分を受けていますが、正義感と反骨精神は子どものころからのものだったことを物語るエピソードです。
卒業後、郷里の小学校に代用教員として勤め、教育者としてのスタートを切りました。二松学舎専門学校で漢文国文学を学びましたが、卒業後、中国戦線に召集されました。戦後、高知新聞の記者を経て、母校などで教壇に立ったあと、27歳で公選の県教育委員に当選し、高知県におけるレッドパージを全国で唯一阻止したのです。
1953年9月日本共産党に入党し、56年からは県教組副委員長、県総評副議長を務め、あの勤務評定反対闘争を、逮捕投獄にも屈せずたたかいぬきました。63年には高知県議会議員に当選。そして69年に衆議院議員に初当選。以来10期連続当選。30年と6ヶ月の議員活動をつとめあげました。
1980年3月には、党中央委員会の文教部長となり、87年から党中央委員、97年から幹部会委員として、党の要職を歴任されました。また党衆議院議員団長、党議員団総会副会長を務めるなど、文字通り党国会議員団の大黒柱として活躍されました。
山原さんは文教委員会に一貫して所属してきました。山原さんの口癖は「学校を劇場のように楽しいところ、恋人に会いに行くような心ときめかすところに」でした。定数問題小委員会を設置させて40人学級を実現させ、さらに30人学級の実施を追求したのが山原さんです。学校災害問題では、死亡見舞金が300万円だったところ、1200万円といっきに4倍も引き上げる原動力になりました。
山原さんの最後の選挙になった96年の衆議院選挙では、小選挙区高知1区で当選する快挙を成し遂げ、念願だった四国から2人の国会議員を実現したときの喜びようは昨日のことのように私の目にも焼き付いています。激戦を終えて「秋月や満天の星煌めきて」とうたっています。
人間味溢れる山原さんは、人の心を打つたくさんの逸話を残されました。初当選した時の三つの誓いを忠実に守り通したことは今でも語りぐさです。お母さんへの絵入りの手紙はお母さんがなくなるまで毎日届けられ、その数は3000通を超えた伺っています。多忙な国会の合間を縫って行われた高知市日曜市での国会報告は1000回を越え日曜市の名物とさえいわれました。高知民報での活動報告「さるとび日記」も毎週続けられ、1回も欠かすことはありませんでした。
短歌もたくさん残されました。国会初登院の日に「南(みんなみ)の熱き炎にくらぶれば 赤き絨毯色褪せて見ゆ」とふるさとに思いを寄せてうたい、92年のPKO法反対では敢然と牛歩をたたかって「千万の怨嗟のこもる議場なればそを噛みしめて一歩を刻む」とうたわれました。どれもが民族の自由、主権在民の一筋の道を歩み続けられた政治家・山原さん、文人・歌人としての山原さんの姿を彷彿させるものばかりです。
山原健二郎さん。日本共産党は今年1月、第23回党大会を開き貴方が念じてやまなかった日本社会の民主的改革の道筋と未来社会の展望を明らかにした新しい綱領を採択しました。目前に迫った参議院選挙でも前進をめざし全国で力強い歩みが開始されています。山原さんとともにこの選挙をたたかいたい、この思いはもはや叶えられません。しかし、残された私たちは、山原さんの遺志を受け継ぎ21世紀の勝利者となることをお約束します。
長い間本当にご苦労さまでした。どうか、安らかにお眠り下さい。