作年末「山内家の財宝・高野切を県が7億円かけて購入する。支配されてきた者たちの末裔が支配者の文化を大枚払って保存するのは納得できない」と県出身の直木賞作家・坂東眞砂子さんが地元紙に書いていたのを読んだ▼「高野切」と山内家が保管してきた36000点以上におよぶ古文書や資料寄贈がセットになっている認識がないまま書いた感じだったが、果たして「民衆の文化」と「支配者の文化」を機械的に分けることができるのだろうか。支配される民衆がいるからこそ支配者は存在できる。両者はコインの裏表であり、支配者の文化を知ることで、浮かび上がる庶民の暮らしや文化は当然ある。関ケ原後、土佐藩に入った山内家の圧政はすさまじく、民衆は各地で一揆や逃散で抵抗した。津野山騒動、池川郷の逃散などが知られるが、仮に一揆を鎮圧する立場から記述した山内家の資料があれば、それは民衆の抵抗運動の立派な記録になる▼「歴史は常に支配者に書かれてきた。もっと民衆の歴史に光を」という坂東さんの主張はもっともであるが、民衆は文化を記録する文字や印刷技術を過去には持たなかった故に、歴史を知るには支配者の文化を通じるしか手段がないことが多い。板東さんの論でいくとベルサイユ宮殿もモナリザもピラミッドもパルテノン神殿も万里の長城も「支配者の文化だから」大枚はたいて保存することはないということになってしまう。▼この問題には観光という高知県の主要産業への投資という側面もある。南の島タヒチで牧歌的に「お金の心配がいらない」(02年3月2日中日新聞)暮らしをしていて、「土佐の山間部の民衆の文化を守るには」と言われても説得力に欠ける。是非高知に帰って執筆してほしい。

戻る