原水禁大会の分裂をテーマにしたコラムが地元紙に出たのをご覧になった方もいると思う。原水禁大会が2つ開かれている原因を筆者のY氏は、いわゆる「いかなる国」、「部分的核実験停止条約」への意見の相違と認識しているようだが、これは実態と違う▼1963年の第9回大会後、社会党・総評ブロックが原水協を脱退して原水禁をつくり別大会を開いた背景には「いかなる国」、「部分核停」があったが、77年にそれらは基本的に克服され、85年までの8年間、原水協と原水禁の統一大会が開かれている。筆者も80年代前半に広島の統一大会に参加した体験があるが、大会の熱気の記憶は今も鮮烈だ。86年から再び分裂大会となるが、この時に大昔の「いかなる国」や「部分核停」などが問題になるはずもない▼当時対立したのは「究極的廃絶論」だった。核兵器「即時廃棄」から「究極的廃絶」という核兵器保有国に打撃にならないスローガンを持ち込む動きが強くあった。しかし今にして思えばスローガンなどなんでもよかったのだろう。原水禁の主力であった社会党・総評が解体にむかう時であり、この巨大な流れに翻弄された感が強い▼今日、再分裂当時とはまったく政治状況は変わった。原水禁運動にとどまらず、憲法改悪にストップをかける国民的統一戦線の構築は急務だ。不一致点を持ち込まず一致点での共同に徹すれば、それは可能だと思う。とりわけ高知県には有事法制反対や国鉄闘争などで党派を超えた共同が今もあり、全国の先頭を切れるエネルギーがある。Y氏がまじめに運動の統一を願うなら陰鬱に陥って「分かりにくい」難癖をつけるより、前向きな角度からの批判を期待したい。(2004年8月8日)

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