県議会の取材で新聞社や放送局の記者を目にする機会がよくあるのだが、最近つくづく思うのは記者の様変わりである。とりわけ全国紙の若い記者はどうしたことかといいたくなることがよくある▼「政権選択」や「改革」などブルジョア・マスコミとしてのバイアスという本質論はここではさておく。圧倒的な影響力を持つ地元紙は、高知県における権力構造の一角を占める企業体としての思惑を背景に、ジャーナリズムとは別次元の彼らなりの論理で情報を操作しようとする一方、地域とのつながりを背景に県民世論をくみ取り、書くべき事は書く懐の深さがある▼全国紙といえば、もともと体制は、地元紙のそれとは比較できないほど弱小だが、そのような環境下でも、以前ならローカル問題で地元紙に対抗して独自の論陣を張り、「地元紙何するものぞ」という気概のある記者が結構いたものだが、最近はそのような人物はとんと見かけない。地元紙のアクの強さと対照的に「人畜無害」的な「好青年」が多いように感じる。だが「人畜無害」に官製の発表を流すだけでは権力を監視するジャーナリズムとは言えない▼今県議会で議論されている橋本知事の「選挙資金疑惑」や談合、土地問題などは非常に複雑で、とっつきにくいテーマであることはよく分かる。だからといって「記者クラブ」という特権により与えられた記者席で、地元紙記者が懸命にメモをとっている傍ら、全国紙の記者たちが集団で舟を漕いでいるようではあまりにも情けない。ジャーナリズムはこうやってフェードアウトしながら死んでいくのだろうか。ジャーナリズムの危機は民主主義の危機である。夢うつつの彼らにその自覚が果たしてあるのだろうか。(2003年11月9日)


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